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そして、生活するように旅をしよう!起業家、岩佐大輝の記録。

地方創生キーワードはイケてる首長×よそ者×地元の名士(岩佐大輝 × 黒田泰裕 対談)

宮崎県南部の日南市。港町として栄えた海の美しいこの町も、近年は過疎に苦しむシャッター街と化していた。そんな同市で、劇的な地域再興をもたらした立役者たちに会ってきた。

[写真] ABURATSU COFFEE 商店街の一角にあるお洒落なカフェ。中は若い人たちで賑わう。


基礎自治体の再生は首長がイケてる人じゃないとはじまらない

岩佐)3年前くらいから日南はすざましい復活を遂げたことでかなり注目されていますね。油津商店街を少し歩いただけでも、たくさんの若い人たちが集まるカフェや将棋大会など、活気がある様子が伝わってきました。再興した一番のポイントは何だったんですか?

黒田)やっぱり日南市長に若手の崎田恭平さんが当選した年に、民間からは木藤亮太君(日南市の中心部にある油津商店街を再生するテナントサポートマネージャー)と田鹿倫基君(日南市のマーケティング専門官)も登用されたことですね。今から4年前、あの年が全ての分岐点だったと思います。
 今新しいITベンチャーが次々と入ってきているので、元からいる商店街の人たちともう一度この場所をリセットして新しく作り直していく必要があると思っています。ここは商店街再生というよりも、そういう賑やかな場所が新しくできたという感覚にしていきたいと思っています。昔からいる商店街の人たちは、あれ?と思うかもしれないけれど。この街は、福井県の若いデザイナーが設計したんです。公募で77人来たうちの1人でした。人口5万3000人のこの町でも、こうやってお洒落な場所があれば、いろいろな人たちが来てくれるんですよね。

岩佐)すごく良いなと思ったのは、昔の古き良き商店街をそのまま復活させるんじゃなくて、その遊休資産を利用して新しいことを始めていること。そもそも商店街って町の一番良いところにありますよね。だからやり方次第では、そのポテンシャルは大いに活かせるんだなと、ここに来て感じました。

黒田)昭和40、50年頃は景気が良いから、駅前の商店街なんかは何にもしなくても店が入ってきて、しこたま儲けることができた。でも時代の流れに沿ってどんどん廃れて。それは何も手を打たなかったからじゃなくて、商店街のなるべく状況なんですよ。なるべくしてこのような状況になってしまっている。だからそこに同じように商店街を再生させることはナンセンスな話なんですよ。再生ではなくて、囲い込まずに解放することが必要なんです。解放して、そこにどれだけ切り拓いていける人を呼び込めるかが、大事なんです。

岩佐)なるほど。コミュニティハブみたいな場所ですね。今僕は農業生産法人の他に、町おこしを目的としたNPO法人GRAという組織でゲストハウスを作ったり子どもたちや若者の教育事業を手伝ったり、コミュニティーの活性化に取り組んでいます。なので、黒田さんがされているような事業にすごく興味があったんです。
 僕はこういう基礎自治体に関しては、まず首長がイケている人じゃないとどうしようも無いと思っているんですけれど、黒田さんの感覚ではどう思いますか?


黒田)その通りですよね。政治家のドロドロの人間関係のような世界に関わってきた人はそういう首長になってしまう。でもここは、崎田君が市長になって、既成の常識を打ち破ったところからスタートしている。既にIT企業を10社誘致できたんですけれども、社長たちに何で日南に来たのかと聞くと、”ここは全国どんな自治体の行政よりも対応が早いから”と言うんです。普通の行政なら1週間かかることを、ここは2時間くらいで答えを出すから、他の場所よりも条件も良いし対応も早いしで、日南を選びますよね。よくここは商店街のモデルだと言われるんです。少なくとも3年間、僕たちはその商店街物語を守って、挑戦してきました。僕らは、新しくこの商店街に出てきた人たちが成功するためのサポートをしていかなければいけないんです。

岩佐)行政サービスも素晴らしいんですね。それに子育てをする施設があって、別のところではこども農園もできる。商店街があって、お洒落なカフェなんかもある。あと僕だったら毎日サーフィン行くだろうけど、海もありますよと。

黒田)行政がしっかりしているという要素がありますが、やっぱりそこにもしっかりしたリーダーがいないといけないんです。GOを出せるのはトップだけだから、2時間でGOを出せるトップでないといけない。やっぱり大事なのは首長なんです。

[写真] 日南にはきれいな海があり、移住するサーファーも増えているという。



NPO的な株式会社、「油津応援団」の役割

岩佐)今日商店街にも若い人たちがたくさんいて、ああいう人たちがオーナーシップを持ってやっているんだなと感じました。今リーダーは何人くらいいるんですか?

黒田)僕がいて、市長の崎田君がいて、田鹿君がいて、木藤君がいて、村岡君がいて。今は30代のリーダーがぞくぞく出てきていますね。崎田君や村岡君をはじめ、時代の先を走る人たちが周りにたくさんいるんです。保守的で風当りも強い場所で新しいことをやっていくのは、それなりに覚悟を要すること。だからこそ昔から日南に住んでいる僕は、日南の人たちとの人脈を大事にしました。僕たちが立ち上げた会社、油津応援団も、もとは僕と村岡君と木藤君の3人で資本金90万円を出し合ってできた会社なんです。それが今では株主が40人以上も集まって1600万円まで増えました。

岩佐)株主が40人以上!? どんな形の会社なんですか?

黒田)株式会社です。立ち上げ当時はお小遣いから出せる30万円ずつを3人で出して、他に必要な資金は僕がずっと所属していた商工会の役員に頭を下げて出資してもらいました。今集まった株主の中には僕たちよりも出資している大株主もいて、株主総会もちゃんとやるし、取締役もそこで選ばれます。ちゃんと配当もありますよ。九州パンケーキだったり焼酎だったり現物支給も。この会社が担うことをみんな分かっていて、それに賛同してお金を出してくれているんです。

岩佐)こういう形ってNPO法人だったらあり得るけれど、株式会社としては珍しいですよね。

黒田)先週も、ここの近くの歯医者さんが”俺も何か協力したい”って言ってくれたんです。今はそうやって周りの人たちから僕らのもとに来てくれるのが、すごく嬉しい。こうやって、もともと3人だったところから44人まで増えたんです。44人のうち、村岡君が集めた宮崎市の4人以外はみんな日南市の人たちです。商工会のメンバーもいます。あとは市民の人たち。”店を作ってくれてありがとう、だから私たちもお返しします”って言ってくれる人たちがいます。

岩佐)この話が今日聞いた話の中で一番ビックリだな。

[写真] 左から、田鹿氏、GRA代表岩佐、油津応援団代表 黒田氏


黒田)そうですよね(笑) 経済産業省とか中小企業の役員とかが来て一番興味を持つのが、会社の実態なんですよ。”油津応援団ってどうやって資金集めているんですか?”って聞かれるんです。それで答えると、”何でこんな民間会社が国の政策補助金を1億円も使ったりできるんですか?”って。できるんですよ。

岩佐)今まで大きな事業はどんなものがあったんですか?

黒田)大きいのは油津ヨッテンとコンテナ(スタジオやフリースペース)で1億5000万円ですね。ヨッテンの運営は市からの委託事業として行っています。一部は僕たちの手出しで、全体ではまだ借金は3000万くらい残ってはいますが、少しずつ返済していっています。リスクはありますが、それでも実行できるのが我々の強さだと思います。・・・普段こんな話はあまりしないのですが(笑) みんなお金の話は遠慮しているのか、聞かないから。

岩佐)僕お金大好きですから。冗談です(笑) 僕は24歳の時にITの会社を作ってからずっと経営者をしているんです。その会社を10年近くやった時に東北で震災が起きました。僕の地元が宮城県の山元町というところなんですけれど、津波でほぼ全滅してしまったんです。そこで何とか故郷を復活させたいと故郷へ戻って、町おこしのためのNPOの他にイチゴを作る農業生産法人も作ったっていう経緯もあって、黒田さんの経営方法にもとても興味があるんです。

黒田)僕は中小企業診断士なんだけど、今の若い人は経営の基本が分かっていない人が多いように思う。油津応援団では、僕が中小企業診断士で木藤がランドスケープのデザイン担当、村岡君が飲食店担当。いろいろな人が揃っている集団だから、仕事をきっちりやらせてもらえるんです。だから僕は財務管理にすごくうるさい。ちゃんとキャッシュフロー管理はするし、設備関係は基本的には借り入れをしないで出資を集めて作っています。

[写真] 2015年11月にオープンしたあぶらつ食堂。となりにはABRATSHU GARDENという小さなコンテナや、油津 Yottenというスタジオやフリースペースもある。どれも油津商店街アーケード内にある、老若男女が集まる拠点だ。



商店街再活性化の担い手は月給90万円!

岩佐)そうなんだ。ちょっと聞きたいのは、このプロジェクトが始まったとき、ここは真っ暗だったし、人は通らなかった。そういう町って全国にいっぱいありますよね。僕の地元の町もそういう状況になりつつあるんだけれども、そこで最初にやるべきことって何でしょうか?

黒田)まず担い手を1人決めることです。1人のリーダーを決めること。日南の場合は、崎田君が市長になったあと、木藤君が民間人の中から登用された。商店街に20店舗誘致することをミッションとして月給90万円で任されたんです。そして4年で達成しました。誰を登用するかは市なり議会が決めることなんだけれど、そこでもいろいろ言われるわけですよ。でもそれを押し切るだけの強引さがないとダメ。田鹿君が来た時にも、議会からは否定的な意見も言われました。でもあいつじゃなければダメだと、そこまでやりきることですよ。

岩佐)リーダーを定めるっていうことなんですね。だからそのリーダーを定めるには、本当のトップが、従来のしがらみにとらわれない新しい人を呼び寄せることが大事なんですね。完全によそ者ですよね。

黒田)よそ者が良いと思いますよ。それだけの風を受けてもやれる、という人間を連れてくる。それでちゃんと権力を持たせるんです。合議制じゃ絶対ダメですよ。だって商店街のオジサンが5人くらい集まって決められることなんて、そこそこのもんだけですよ。自分たちの立場を脅かすようなことは決められない。去年やったことを少しだけ形を変えてやるくらいのことで、町が変わるなんてことないでしょ?
 木藤君のポジションになる人を全国から呼び寄せるときに、審査委員を作らないといけないんですけど、全国から集まってきた審査委員リストの中には、商店街会長とか大学の先生、市の議員ばかりで、はっきり言って、マネジメントができる人が1人もいなかったんですよ。そこで僕が、コンサルティングの話にはものすごく詳しい村岡君を推薦したんです。そういう観点からまず審査委員を数名選んで、それから最終的な公開プレゼンで木藤君に決まったんだけれど、その村岡君と木藤君と私がいつの間にか繋がっていたんですよね。で、この3人で会社を作っちゃったと。

岩佐)まさか日南に来て村岡さんの話を聞くとは思わなかったな。黒田さんも、やはり木藤さんが選ばれると思っていたんですか?

黒田)思っていましたね。腰の低さとか、地に足が付いている感じがしましたね。公開プレゼンをした中には大手広告会社の上からモノを見る人たちもいて、”この人たちは商店街の酒屋のおっちゃんたちと酒を飲んで、ちゃんと話ができるのかな?”と思ってしまうんですよ。面白いんだけど、公開プレゼンの後、夜の商店街で9人の候補者たちを交えて、30人くらいで飲み会をしたんですよ。実はそれも審査の1つだったんです。飲み方はどうかとか、みんなで見るんです。これが案外大事。だってプレゼンだけじゃその人の中身なんて分からないですから。中にはプレゼンはすごかったけど飲み会ではうちの職員にセクハラするヒドい人なんかもいて。やっぱり飲むと本性が出るんですよ。対して、木藤君はひたすら酒を注いで廻っていた。”あいつはなかなか良い”となりましたね。彼は実際にここに来て、最初に若い人たちを集めたり、コミュニティー作りを一生懸命やりましたね。

岩佐)いやー、人に見られているっていう意識を持つことは大事ですね(笑)

[写真] 左 油津応援団代表 黒田氏 右 GRA代表 岩佐



地方創生キーワードはイケてる首長×よそ者×地元の名士

岩佐)今いろいろなところで町おこしがブームになっていて、上手くいっているところとそうじゃないところとあると思うんですけれど、上手くいっている場所の特徴はどんなことがあるんでしょうか?

黒田)例えば、どこかの町でここと同じような施設を作って同じようなことをやって、必ず成功するかというと、そう簡単にはいかないと思う。ここが成功したのは、既に成功できる環境があったからなんです。それは優秀な市長だけじゃなくて、行政の姿勢もそうですね。市役所の職員の中に、こいつ本当に役人かっていうくらいバリバリのやつがいるんだけれど、ヨッテンの1億5000万円の事業の時、結局は9000万円の補助金が下りたんだけど、その手続きも一緒にやってくれて。新しい商店街は、そういう人がいるからできたこと。表面的なことは僕らがやっているんだけれど、実際は表面に出ない彼がいないとできなかった。彼の存在は大きかったんです。あとは油津町の民間の僕らにお金を集めてくれる会社があったこと。そして我々は自分の会社から報酬をもらっていないんですよ。村岡君は一平での報酬があるし、僕は中小企業診断士の仕事で給料をもらっている。でもやっと利益も出るようになったので、来年あたりから少し貰おうかなと村岡君と考えています。僕たちは良いけど、後の代に続かなくなってしまうから。でもそれ以上に、10人のパートやスタッフたちにボーナスを出してあげたいなとずっと思っているんですけれどね。

岩佐)やっぱりパートさんを満足させて、社員を満足させて、経営者は最後ですよね。

黒田)僕は他に収入がありますから、それで十分です。それよりも、例えば知らない人が歩いていて、その人から”黒田さんでしょ?頑張って!”とか”こんなに変えてくれてありがとう”とか言われることが、涙が出るほど嬉しい。そういうつもりでやってきたんじゃないんだけれど、結果的にそう思ってもらえることができれば、人生としては最高だなと思います。それが僕にとっての給料だと思っているんです。
 僕は3年前、東北で津波の被害にあった山田町というところに行ってそこの商店街を見てきたんだけれど、大変なところだった。今までは被災地だからということで仮設の商店街を作ってもらったりしていたんだけれど、今度はみんなでお金を出し合って作るわけですよ。みんな60歳過ぎた人たちばかりです。そんな人たちに”自分たちで借り入れしてやれ”って無理な話ですよ。でも僕がそこに行った時この商店街のビデオを持って行ったんだけど、そこの人たちにも言われたんです。”私たちから見ても、黒田さんのところの商店街は大変そうだ”って。逆に励まされちゃって。”私たちも頑張るから、黒田さんも頑張って。これで油津町を変えたら私たちも行くから”って、おばちゃんたちが言ってくれたんです。

岩佐)3年あればいろいろできるんですね。

黒田)できるできる。みんなやらないだけ。”来年するから”っていうでしょ。でも今年できないことは来年もできないんですよ。絶対できない。それなら今できるだろ、と。1か月あればできるだろ、と。ぐだぐだやっていたってしょうがないわけですよ。半年やってダメならば他のことをやった方が良い。

岩佐)話を聞いていると、崎田さんみたいな優秀な首長や行政の人たちがいて、よそ者の木藤さんがいて、村岡さんがいて、何よりも地元の名士である黒田さんがいて。そういうチーム編成が地方創生には最高なんですね。きっとよそ者だけでもダメで、黒田さんのような地元の最強戦士がいないとやっぱりダメですね。

黒田)この場所に長く住んでいて、地元の人からも慕われている人も重要です。だからもし他の新しい場所でも成功するとしたら、この人はここでいうあの人だ、っていう人を見つけていくことですよ。来年ここに中小企業庁の官僚が来るんですけれど、地方創生が仕組化されたり法整備されたりすると全然面白くも何ともなくなるんですよね。最後は人ですから。その地域に住む人、地域によって全く違う人たちがやるわけでしょ。だからモデル化、標準化されたタイプっていうのは難しくて、”あそこに行って見てきてごらん”としか言いようがないんです。でも、僕たちがやったことを後世に残すために、取締役に30代、40代の人を積極的に入れています。僕らと同じ時代に同じ場所で一緒に汗をかいた人間が次の役員をやる。僕と村岡君と木藤君で始めたこの活動を、そうやって引き継がせていきたいと思う。それは人間がいる限りできることなんです。



黒田 泰裕(くろだ やすひろ)
1953年日南市出身。株式会社油津応援団代表取締役。日南市中心部の油津商店街を再生に導いた立役者の一人。1978年大学卒業後、日南商工会議所に入所。2012年同所事務局長を経て、2014年に油津の中心市街活性化事業のため、木藤亮太サポートマネージャーと村岡浩司氏3人で(株)油津応援団を組織。2016年に同社代表取締役に就任。中小企業診断士保有。

同級生の林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きに行ってみたよ<後編>

高校時代の同級生、林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きにいってみたよ。

<前編はこちら>

[写真] GRA代表 岩佐(左)と林宙紀氏(右)


岩佐)さていよいよ本題。当選したら、どんな仙台をつくりたいの?仙台は大好きだし、いい町だけど、政令指定都市の中では、いまいち突き抜け感がないじゃん、残念ながら。でもポテンシャルはあると思っているんだ。起爆剤になるようなことをやってほしいんだよね。

林)これは日本全国どこもそうなんだけれど、まず解消しなければいけないのは少子化と高齢化、それに伴う人口減少。これの解消のためにどういう回答を出すかっていうのが結構大事だと思っていて。今、人口減少は避けられない、だから将来人が少なくなって、行政サービスが悪くなるとか市場規模が小さくなるとか僕らの生活水準が下がるとか、いろんな悲観的なことばっかり言われてる。こんな夢の無い国を、僕らの子供の世代が大人になった時に引き継がせたくない、と僕は思う。そもそも仙台市は人口減少を前提に街づくりをしているわけ。間違いじゃないと思うんだけど、人口減少を当たり前として捉えずに人口を増やすっていう発想はないのか、と。そういう思いが僕の中にある。

岩佐)そうだね。人口の問題が解決されればかなりの問題が解決されるよね。でもそうなるにはいろいろ踏み込まなきゃいけないよね、例えば婚外子の問題とかさ。結構タブーとされていたところに踏み込まなきゃいけないんじゃないの?

林)いろいろ切り口はあると思うんだよ。でも結局人口減少の原因って何だって言ったら少子化なんだよね。でもそれを是としていること、仕方ないと思って諦めていること自体、僕は間違っていると思っている。

岩佐)少子化問題って一番のソーシャルイシューで、何かしら対策がなされようとはしてるだろうけど、次の一手が無いって感じがするよね。



林)そう。結局今言ったことってすごく大事で。20年、30年前から少子化で人口が減るよってずっと言ってきているのに、何も対策できていないじゃない。これって何でなのって思ったら、政治家が自分の当選のことだけ考えてるから。だって子供のことを言ったって票にならないわけよ。それよりは福祉とか年金っていうところを強く厚くしていった方が、自分の票になるよね。だから子育てのための予算なんて後回しでいいんだよ、となる。選挙の時にはそうなっちゃうわけ。でもそうじゃなくて、子育てはどうする、子供を増やすにはどうするっていう話を真剣にやらなければいけないのに、国ではそういう話にほとんどならない。

岩佐)それはやっぱり選挙が絡んでいるんだよね。票の分厚いところに政策も偏りがちになるのかな。

林)そうなる。それは当然そうなる。

岩佐)でも例えその人達の票が分厚いっていっても、厚さ×年数で言ったら、薄い×年数とあんまり変わんないわけだよね。はっきり言って死んじゃうんだよね、今は分厚いけれど。僕が面白いと思うのは、これは公的な選挙ではすぐには無理かもしれないけど1票に重みをつけた方が良いと思っていて。例えば、これから30年生きていくであろう年齢の人の票数は×3とかさ。あと10年くらいの人は逆に×0.5とか。

林)それもありだよね。これは法律だから国でやるしかないけど。

岩佐)少子化の次は?

林)働く場所。簡単に言えば企業。若い人たちがこの仙台に残って働こうと思える会社。若い人たちは企業の本社に行きたくてみんな東京に行ってしまう。転勤等で仙台に来たとしても2~3年で東京に戻ってしまう。

岩佐)仙台に本店をいっぱい作らないといけないわけだ。仙台を創業の地にしたいということ?

林)そう、創業を強力に支援するということ。そのためにまず1つ目は税制。これこそ国が絡まないといけないから、まさに特区を作る必要がある。加えて、これも特区政策の一部になるけれど、創業した企業に対して会社の人数によって行政が支援をしますっていう制度が既にIT関係の業界にあるんだよ。それをITの分野に限る必要は全くないわけ。ここで雇用が作れるとしたら、どんな業界でもやっていきましょうというのが2つ目。3つ目は本店誘致っていうのがある。要は本店を仙台に移動してくれた場合、行政が支援をします、というやり方。そういうことも考えていって良いんじゃないかと思う。住環境としては仙台は良いと思うから、本店を移して仙台で暮らしてほしい。

岩佐)最高な場所だよね。街はきれいだし食べ物はおいしいし、温泉もあるし、スキーもできるし、サーフポイントもある!地方をどうやったら魅力的で強いサステイナブルな街ができるかっていうことを考えた時に、一つの切り口としてはその街に直接海外を狙えるような強烈な産業があるかどうか大事だと思う。仙台はどんな産業にポテンシャルがあるのかな?



林)仙台、あるいは宮城、東北全体でも言えるんだけど、これだけ全国的に農業に可能性を見出そうとしている中で、東北っていうのは有利だと思うんだよね。それと、まさしく自然エネルギー関係。ここで世界に通用するマーケットを作っていく。ここが消費地というよりも、ここから世界に出せるっていう状態を作っていくことが結構重要だと思う。

岩佐)農業っていうのは一つ切り口だよね。GRAがある山元町は人口1万2000人しかいないんだけど、国内外の人含めてイチゴ狩りや視察で年間約2万人の人が訪れるんだよね。際立った何かがあれば世界中から人は集まってくる。そしてその場所がハブになって、そこからエネルギーが広がっていくっていうのが必ずあると思っているんだよね。

林)そうそう。僕もずっと農林水産関係やってきたし、落選している間も輸出事業をやっていた。そうやって見てきて、農業の可能性っていうのはものすごくあると思うんだよ。空港にも仙台空港輸出組合ができたわけだし。そういうものをどんどん利用していけば、仙台は突き抜ける存在になると思う。

今全国で政令指定都市は20あるんだけど、仙台市って人口で言ったらその中の11番目。でもそれぞれの地域で代表的な都市は軒並み150万以上人口がいる。そういった意味で150万人っていうのは一つの目標になる。「150万仙台プロジェクト」はそういう理由から来ている。たぶんこの数字を達成するには30年くらいかかるんじゃないかと思っているけど、150万っていう目標を立てることで、今人口減少って言われている悲観的な見方を僕はまるっきり変えたい。それは子育て支援、少子化対策ができて、魅力的な職場も増えて、外からたくさん人が集まってくる土地になれば人口は増えていくはずでしょ?その結果として150万人になるかどうかは将来の話。でも目指していこうよと。目標が無いところに進歩なんてないから。

岩佐)なるほど。林から伝えたいことはまだある?俺のブログは読者さん結構多いからね。特別タダでいいよ(笑)

林)そうだね、さっきの政令指定都市の人口の話なんだけど。一番多いのが横浜市で370万人。その次が大阪で270万、次が名古屋で230万。札幌が200万近くいて、福岡も155万人。一方で150万人よりちょっと下なのはどこかって言うと、京都市で147万人。ちなみに仙台は108万。よくよく見ると、それぞれの地域で一番だって言われているところには150万人近く、あるいはそれ以上の人口がいることが分かる。仙台は東北で一番大きいって言われているけれど、108万人なんだよね。それに、地下鉄をちゃんと持っているのに人口100万人ちょっとしかいない都市は仙台だけ。地下鉄がある都市で且つそれが機能している都市っていうのは大体150万人以上人口がいるからね。ちょっと投資が早かったかもしれない。でも作ったんだから利用しない手は無いと思っていて。これをもっと利用できる街づくりをやっていくべきだと思う。僕は仙台市のやり方が今まで間違っていたとは言わないし、良かったとも思っている。でも仙台市には今までなかった異質な流れっていうのを持ち込んでいかないといけない。

岩佐)たくさん人が来るって面白いよね。海外の人たちの誘致ってどうなの?

林)それも一つありだよね。ただそれは選択肢の一つ。やっぱりここは仙台市民としてガラッと変わった仙台市を作っていきたいと思う。そういう意識を持ってもらうことが一番重要かなと。僕が勝てば、どこの政党とも手を組んでいない人、どこの業界とも手を組んでいない人が選挙で勝ったことになる。つまり市民の力だけで勝ったと言える。政党も業界も関係ない。市民の力だけで勝ったリーダーが仙台にいると。全国で見てもなかなかそんなことは起きないよ。

すると、「仙台市民すごいな!」って仙台は全国的に注目されるようになる。それで当選させてもらった僕がやがて結果を出すことができれば、仙台市民が新しく作ったこの流れに、国を含め日本全国のいろいろな自治体が「仙台市の真似してみよう」ってなる。そうすれば仙台がリーダーになれるよね。東北って、長らく日本の中でどこか遅れた感っていうのがあったでしょ?でも今度は、震災から6年経った東北が、日本を引っ張っていくリーダーになり得る。僕が勝つ意味はここにある。その流れを作るために、今回僕は勝ちたい。



岩佐)粋な感じだね!仙台から西の方に攻め上がっていこうよ。まさに伊達政宗だね!

林)伊達政宗公は生まれてくるのが20年、30年遅かったと言われ、その後は戊辰戦争で賊軍になり、開発も他の地域に遅れ、そんな歴史の中で仙台は今に至る。今年は伊達政宗公生誕450年の年。これを機に、今まで遅れていたと言われてきたものを反転攻勢するんだ。政宗公が取れなかった天下をここから取りにいこうと。

岩佐)面白いじゃん、それ!「150万仙台プロジェクト」は最高だね。何だかものすごくビジョナリーで、わくわくする!それで仙台の人たちの心に火が付いて、次は俺たちが主役の番だ!って思わせてくれるようなリーダーが仙台には必要。

林)今回の選挙って政策ももちろん大事。大事なんだけれど、それ以上に東北の人たちが「今度は俺たちが日本を引っ張っていくぞ!」っていうビジョンを持つっていうことが大事だと僕は思う。東北はあの震災を経験して、でもそこから東北の人たちは立ち上がったよね?あの災害からこれだけの短期間で立ち上がるなんて、なかなかできない。あれだけ耐え忍んで。

岩佐)僕は最初に震災でやられた故郷の姿を見た時、もうダメだと思ったもん。これはもう終わったと思ったよ。

林)僕もそう思った。でも立ち上がったでしょ?GRAもそうだけど、こういう先進的な会社も増えている。ピンチをチャンスに変えるってよく言うけれど、それを本気でやんなきゃいけないと思うんだ。この先200年、300年後を見据えて何かできるとしたら、それをやるべきはまさに今だと思うんだよ。

岩佐)今潮目が変わるか変わらないかの境目にあるんだよね。

林)そういうこと!僕が仙台市長選挙に出る理由は、そこにある。

終わり


林宙紀(はやしひろき)
昭和52年11月13日生(39歳)
宮城県仙台第一高等学校 卒業、ラグビー部(副将・バックスリーダー)。東京大学教育学部 卒業、東京大学アメリカンフットボール部(主将)。政策研究大学院大学(GRIPS) 修了、国際開発学コース(開発学修士)。国連開発計画(UNDP)、。地球環境ファシリティインターン、ソニー株式会社財務部を経て、ニュースキャスター・ナレーター等として民放各局にて活動。平成24年12月第46回衆議院議員総選挙にて当選(1期)、東日本大震災復興特別委員会、農林水産委員会・環境委員会に所属。

同級生の林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きに行ってみたよ<前編>

高校時代の同級生、林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きにいってみたよ。

[写真] GRA代表 岩佐(左)と林宙紀氏(右)


岩佐)林が仙台市長選にでるなんて、びっくりしたよ。林は中学時代からすでに有名だったよね。宮城県で成績は常にトップ。高校の1年2組の時に同じクラスで、そこから付き合いが始まったわけだけど、ラグビーやっててイケメンでモテまくった。まあ俺の次くらいだけどね(笑)その後、東大に入ってSONYに入社したと聞いていたけど、いつの間にかラジオDJに転身して、今度は衆議院議員。そして今度は仙台市長選に出馬。かっこよすぎるぜ。そもそもなんでこのタイミングで市長選に出たの?



林)その前にここまでの状況を言うとね。衆議院選に落選してからも当時所属していた維新の党の宮城県の責任者をやっていて、ちょうど2015年に仙台市議選とか宮城県議選があったんだよね。その時に維新から公認候補を出すということになっていたので、自分の責任としてちゃんと選挙活動をやろうと思った。その宮城県議選が2015年の11月に終わった後、この先自分は政治活動を続けていくべきかどうか、かなり悩んだんだ。悩んで、悩んで、悩んでいたんだけど、そこから半年経って民進党っていう党ができることになって。それで民進党に合流して、宮城2区の支部長になった、っていう1年間だった。

その間にいろいろあったんだよね。僕が合流する前の民主党時代の宮城2区のお金に使途不明金がいっぱい出てきて、その時責任者だった僕がその調査をやったりした。この中で僕だけが外様っていう状態でもあったし、やっぱり民主党から来られている人達と僕では考え方が違ったんだろうね。そうして恨まれもしたけど、当然、組織としては正しいことをやったと思ってる。



岩佐)要は変なカネの流れが党内にあったわけだね。それを突き止めようとして林は思いっきりやったわけだ。それは正しいよね。なかなかできることじゃないよ。恨まれるし、殺されるよね、ゴッドファーザーの世界だったら(笑)。

林)そう、正しいことをやったと思っているから後悔はしていないんだけどね。それで市長選の話なんだけど、そもそも僕がみんなの党として国政に出馬するときから、「市長選に出た方がいい」っていう話はずっとあったんだ。その流れで、「今年また仙台市長選があるから、国会議員じゃなくても地元のために市長選に出ないか」、っていう声をいろんなところから頂くようになって、いよいよ本格的に考え始めた。でもその時はまだ民進党の組織人だから、党が許可しなければ出馬できない。そんな中、4月になって前市長の奥山さんが引退することになったんだよね。

岩佐)奥山さんが辞めることになって、ざわざわしてた時期があったね、選挙には誰が出るんだと。

林)そう、ざわざわしてたんだよ。自民党は誰を出すんだ、民進党は誰を出すんだ、みたいな話になってくる。その中で、そもそも僕が政治家を目指すことになったのは、「東北の地を何とかするには政治を正さなければいけない」っていう思いから始まっているわけじゃん。

東北を何とかしようと思ったら仙台がもっと頑張ってグイグイ引っ張っていかないとどのみち東北の発展はない、であれば、仙台市に覚悟を持って決断できるリーダーがいてもいいんじゃないか、と。そういうリーダーがいれば東北はもっと変わるんじゃないかと、であれば自分がやってみたいと思ったんだ。その気持ちが大きくなっていく中で、民進党の上の人たちと相談していったんだよね。

そこで「もちろん林も選択肢の1つだ」って言ってもらっていんだけど、ただ民進党って結局民主党の名残で左翼のイメージがものすごく強いと思うんだよね。でも僕は思想的にはほぼ真ん中、むしろ若干保守に寄ってると言われている。仙台市長選に出るんだったら左翼側の人たちだけじゃなくて、当然保守側の人たちの支持も必要だと思って、まず民進党からは離党して、まっさらな状態でみなさんに選んで頂くべきだろうと思った。

そもそも仙台市長選挙なんだから、政党の意向なんて関係ないでしょ。それなのに、自民党がこの人連れてきました、民進党がこの人連れてきましたっていう政党間の争いにすること自体がおかしいんじゃないかと思っていて。僕は党県連の候補者選考委員会っていうものにも入っていたんだけれど、何かおかしいよなって思ってた。別に政策も何もないのに、この党から誰を出そうかって。こういう政策の下に、これだったらこの人にお願いしようとかじゃなくて、まず誰出す?っていう話になるわけ。

そのことにずっと違和感を持っていて。それで選考委員会を2回やったところできまったのが、「野党としての相乗りではなく、民進党として候補を出す」、それと「野党共闘はやらない」ということ。その2つしか決まっていない状況の時に、僕は市長選に出たいという気持ちが既にあって、それを民進党参議院議員の桜井さんに相談したら、「その気持ちはまだ言うな」って言われた。それで黙っていたら、いつの間にか宮城一区選出衆議院議員の郡さんが出るっていう話が確定していて、一体何だそれは・・・と。

そもそも僕が桜井さんに市長選に出たいんです、といった時に、桜井さんから「それならお前はまず民進党を離党しろ」と。離党した上で無所属でやると意思表示をして、そこに民進党が野党の1つとして支援をするという形をとるのがベストだ、という話になって。僕もそう思っていたから、離党届も準備して、いざ離党届を郡さん(県連幹事長)のところへ出しに行こうと思ったら、その日の朝に桜井さんから電話がかかってきて「郡が出るから今回お前はやめとけ」と。いやいや、ちょっと待て、ってなるでしょ(笑)



岩佐)うわー、なんだか魑魅魍魎。そういう世界で生きてくのは大変だ・・・。駆け引きの世界だな。俺の好きなゴッドファーザーの世界だ(笑)。

林)結局民進党は郡さんを出して、市長になってもらうと。そうしたら宮城1区の席が空くから、そこに桜井さんが次の衆議院選挙で宮城1区として出ると。それで1区と2区で、俺とお前で1対1で選挙やって、そうしたら勝率もあがるだろ?って話になってさ。

岩佐)前哨戦も含めて戦いなんだね。なんというか騙しあいっていうのかな。林はあまりにもピュアだからそういう駆け引きは向いていなそうだし、それがいいところなんだろうな。

林)ついでに、やらないと言っていた野党共闘もすることに決まってたしね、いつのまにか。その時に、ちょっと違うよなと。僕が思っていた政治とは違うよなと。そもそも、どこの政党がどうとかじゃなくて、市民がどう思っているかを問うために市長選があるわけで、そんな国政政党同士の争いにする意味がない、と思うんだ。そう考えた時、もしかしたらそもそも僕が民進党でやってきたこと自体もしかしたら良くなかったのかもしれないな、という思いに至って、じゃあ僕は離党するのでって言って離党した。

岩佐)潔いね。さすが。それで、晴れて無所属、新人、林宙紀として仙台市長選挙に出馬し、対抗馬は旧宮城1区の衆議院議員、郡和子さん。もう一人が、自民党が全力で支持する清月記の社長、菅原裕典さんっていうことだよね。

林)つまり、自民党対野党共闘候補っていうこと。だから共産党も含め野党として郡さんを出しますっていうわけね。

岩佐)ちなみに他の候補者の年齢は?

林)郡さんが61歳。菅原さんが57歳。

岩佐)林は39だね。やっぱりリーダーが若返るって大事だよ。この前、千葉市の熊谷さんと離したんだけど、彼なんかすごよね。僕らと同じ39歳。もちろん年配の人が悪いっていうわけじゃないけど、今のこのスピード感に、この波に乗れる人じゃないとなかなか難しいなって個人的には思っているんだよね。

林)あとは発想だね。僕らの世代と上の人の世代って考え方がちょっと違う。どちらが良い悪いっていうわけじゃなくて、今こっちの考えでうまくいかないなら発想の転換をしてみよう、っていう考え方が重要だと思うんだよね。GRAはまさしくそういうことをやっているわけでしょ。

岩佐)うん。上の世代をリスペクトしつつも、新しい発想で日本を作っていく年代に差し掛かっているんだね、僕らは!

<後編へ続く>


林宙紀(はやしひろき)
昭和52年11月13日生(39歳)
宮城県仙台第一高等学校 卒業、ラグビー部(副将・バックスリーダー)。東京大学教育学部 卒業、東京大学アメリカンフットボール部(主将)。政策研究大学院大学(GRIPS) 修了、国際開発学コース(開発学修士)。国連開発計画(UNDP)、。地球環境ファシリティインターン、ソニー株式会社財務部を経て、ニュースキャスター・ナレーター等として民放各局にて活動。平成24年12月第46回衆議院議員総選挙にて当選(1期)、東日本大震災復興特別委員会、農林水産委員会・環境委員会に所属。

ローカルビジネス界の異端児 2人が語る世界への挑戦<後編>

話題沸騰中”九州パンケーキ”の生みの親、村岡氏が山元町のイチゴワールドへやってきた。ローカルを食ビジネスで盛り上げる2人の起業家の対談。

<前編はこちら>

[写真] パンケーキを焼く村岡氏


岩佐)せっかくなので、会場からも質問を頂きましょうか。

男性)九州を盛り上げるビジネスをしようと考えた時に、そもそもなぜパンケーキを選ばれたのか、もう少し詳しく聞かせてください。

村岡)ミックスの開発を始めた当時、東京ではパンケーキブームでした。ハワイの某人気パンケーキ店のオーナーさんと親しい間柄でして、ハワイ側から日本のブームを見ていたんですね。だからこれからはパンケーキ、というかハワイブームがくるなと。当時、テレビでも雑誌でもパンケーキを特集していましたよね。僕は一つの仮説を持っているんですが、圧倒的にカルチャーレベルまで根付くものというのは、言語変化するんですよね。つまり、20年前の1997年にスターバックスが銀座に初上陸してから、コンビニにラテの商品が並びましたよね。「マウントレーニアラテ」というのを皆さんご存知ですか?これ、発売から20年経って、中身がラテなのかカフェオレなのかコーヒー牛乳なのか、違いが分かる人っていますか?また、うちの20代のスタッフに「喫茶店に行こうか」というと、カフェと違うイメージのものが思い浮かぶと思います。こうやって言語変化するんです。10代20代の人たちが「パンケーキ」と言い始めて、これはホットケーキでなくパンケーキが広まるなと思いました。その時に僕は全てのスーパーに行って調査したんですが、パンケーキミックスが一つもなかったんですよ。だから僕がそこにパンケーキを並べようと。

岩佐)パンケーキブームはすごかったですが、いずれ終わるだろうなとみんな思っていましたよね。でも意外とマーケットに定着している。一過性のものと、ブランドとして定着するものとの違いを聞いてみたいです。

村岡)店舗は飽きられていきますよね。いわゆるパンケーキショップは飽きられます。圧倒的に力のあるものが投資をすれば、力のないものは淘汰されていく。スターバックスが広がっていき、次々と上陸してきたカフェは消えていっています。でもコーヒービジネスはそこから深化していって、サードウェーブなど今すごくいい形で残っていますよね。それと一緒で、パンケーキカフェやパンケーキメニューはもう行列はなくなっています。どんなに人気のパンケーキショップも、夏くらいには並ばなくなるかもしれません。でもパンケーキという言葉は残っていく。それがさっき言った言語変化なんですよね。つまり概念としては残る。

男性)パンケーキと何かのコラボ商品を作るのは面白いなと思っています。いろいろな候補があると思うんですが、これとやるのは面白いという具体的なアイディアはありますか?

村岡)パンケーキはある意味、プラットフォームなんですよ。世界中に持って行って、その土地の農場を訪ねてそこにあるいいものと組み合わせて作ることができる。今は、東北の素晴らしい農業と組み合わせて作りたいですね。これは本当に万能なミックスで、パンも焼けるしクッキーもやける。なのでその土地の農業と組み合わせて何ができるか、料理人の感性としては、肉とか野菜とか含めいろんなものと組み合わせることに興味があります。日本は小麦をほとんど自給していましたが、経済合理性上輸入が増えて今は小麦の自給率は30%くらいです。でも東北でも北海道でも、日本中でまだ小麦を作っているんですよね。小麦は僕らが昔から食べているものなので九州パンケーキは一つのモデルケースだと思っていて、例えばお茶の産地で採れる小麦と組み合わせて、抹茶パンケーキを作ってもいいと思うんですよ。それで小麦の自給率が上がったら面白いですよね。

岩佐)ちなみにパンケーキミックスの市場規模はどれくらいあるんですか?

村岡)全国で200億円くらいですね。小さいです。例えばコーヒー市場は1兆3000億くらいあります。焼肉屋のマーケットは8000億円くらい。47都道府県のスーパーマーケットで割ると、パンケーキミックスの売上はスーパー一店舗あたり1か月1万円くらいです。僕らはそのマーケットのだいたい1-1.5%を乗せているくらいのものです。僕らはシェアを10%、20%取ることを目的としているわけではなく、僕らが新しい概念としてパンケーキミックスをどれだけマーケットに乗せられるか、ということに関心があります。もっと言うと、パンケーキミックスがどれだけ大きく広がっていくかということだけに興味があるわけではなくて、さっき言ったように何かと組み合わせて横展開していくことなんですよね。ミックスがあれば例えばイチゴと一緒にご家庭に届けるようなビジネスを展開できます。それにはレシピが必要ですから、地元のパティシエさんに協力してもらって、レシピと一緒にミックスを届ける、そうすればミックスだけではなく、イチゴやパティシエさんのマーケットが広がっていくわけです。

[写真] GRA岩佐もパンケーキ作りに挑戦

男性)村岡さんと岩佐さんも、地域をどうにかしたいという想いが最初にあると思うんですが、その今のビジネスを続けていって、地域と人にどうなってほしいという想いがあるのか聞かせてください。

岩佐)山元町は人口1万2000人くらいで、震災前はだいたい1万6000人くらいいたので、20%くらい減っています。おそらく余程大きな成功か間違いかが起こらなければ、この町は確実になくなる、という状況なんです。普通にやって町がなくなるくらいだったらなんでも挑戦しよう、というような環境が地方には必要だと思います。
最近は行政も地方の挑戦を後押ししていて、リスクをとる自治体にはどんどんお金が入るようになっています。だから地域のあるべき姿は、リスクをとって思いっきり何かに挑戦するという雰囲気が町にできることかなと思います。僕の責任は、若い生産者や学生とたくさん話をして、たくさんの起業家が育っていくこと。そして、山元町に必ずしもいなくてもいいですが、山元町に本社を置いて何か自分でスタートしようという人が育ってくれることが、僕の町や人に対する想いです。


村岡)僕も、同じくチャレンジしてもいいという文化を作りたいんです。僕は実は小学生のときは吃音障害があって、母音が出なかったんです。だから日直の時に「おはようございます」というのがすごく緊張して、泣きながら学校から帰っていました。で、28歳の時には会社を潰してしまっていて、もうこれで終わりなんじゃないかと思っていました。でも今こうやってみんなの前で話をするときには、僕はいつも、小学生や28歳の頃の自分を後ろに座らせているんです。で、話し終えた後に、その時の自分を抱きしめるんですよね。大丈夫だよ、と当時の自分に言ってあげるんですよ。だってこうやって今、人の前で喋れているじゃないですか。小学校の時の自分は本当にビルの上から飛び降りようとしたし、28歳の時には言われなきことで蹴られたり殴られたりしましたよ。
真面目なやつほど商売で失敗して、未だに大きな借金を背負っている人もいるし、中には命を絶ってしまった人もいる。でも、挑戦していいんですよ。こんな時代だから。このままだったら山元町はなくなるわけです。このままだったら宮崎もなくなるわけですよ。どんどん一極集中していって、東北は仙台に、九州は博多に集約されていっていくわけです。福岡の人たちが、「九州は一つ」と言っても、宮崎の僕はしらけるわけですよ。地方の小さい町の小さな会社であっても挑戦していいし、もし失敗した時にも、地方のみんながお互いに肩をたたき合って、次に何やるの?と言い合えるような文化を作りたいなと思います。

岩佐)徳川家康みたいですね。家康は武田信玄にぼこぼこにやられたときに、その時の自分の肖像画を描かせて置いていたらしいんですね。それを見て反省したり、自分に優しくしたりしていた。もしかすると宮崎から本当に武士のような人が生まれたんだというような気がしました。では最後の質問。

男性)僕が村岡さんの名前を知ったのはパンケーキではなくMUKASA-HUBというプロジェクトでした。宮崎の廃校を買って起業家のハブにしようとしていると思うんですが、MUKASA-HUBを何故作ろうと思ったのか聞かせてください。

村岡)小学校って買えるんですね、みなさん(笑)九州パンケーキが成長し始めた時、僕は倉庫を探していたんですよ。そしたらたまたま小学校が売りに出るらしいと聞いて、見に行ってみたら、夕日を浴びてすごく綺麗だったんですよ。蛇口が光っていて。僕はその場で携帯を取り出して、会社の経理に小学校を買おうと思う、と話しました。最初の計画の何倍もお金がかかって今苦しいんですが(笑)何をやるかと言うと、一つは九州パンケーキの配送拠点にするんですが、持て余したスペースにはコーワーキングスペースを作って、みんなで地域のビジネスを考える場所を作り、二階にはうちのオフィスだけではなく、地元で新しい産業を起こそうとするようなベンチャーの起業家たちに入ってもらって、そこにビジネスコミュニティを作ろうかなと思っています。
実は僕にとっては久しぶりの経験で興奮しています。僕は10代の頃には古着のバイヤーをやっていて、30代の時にはタリーズコーヒーを始めました。タリーズは今日本で700店舗くらいあるんですが、実は日本のフランチャイズの第一号契約を取りました。今あの時の興奮があるんです。スターバックスが80年代から90年代にアメリカで一気に広がっていって、ものすごいムーブメントを起こし、90年代後半から2000年代には日本でもカフェカルチャーが広まりました。
これから、コミュニティの在り方の再編成が起こります。先週シリコンバレーにいって確信したんですが、一つのコワーキングという概念が、全国ものすごい勢いでスタートします。単なる場所ではなくて、たくさんの面白い人達が集まってきて、それが全国で繋がってネットワーキングしていって、必要とする人やモノやお金をボーダーレスに共有できるようになる時代が来る予感がしています。
僕は南九州のMUKASA-HUBを九州の拠点にしようと思っています。もしかしたら東北の拠点が山元町になるかもしれないし、そこにはレストランやカフェが集まるかもしれない。これからは行政とか県境に影響されないようなビジネスの枠組みが生まれてくると思うんですね。むしろ行政がその場所を後付けで利用するようになってくると思います。

岩佐)日本は本当の意味でのコーワーキングスペースは少ないんですよね。単なるオフィス貸しにすぎず、コワーキングの概念は、自分にない力を持っている人と出会えるような、人と人が繋がっていくことなんですよね。そんなのものがもっと増えればいいなと思います。


村岡 浩司
有限会社一平 代表取締役。1970年宮崎県宮崎市出身。1966年から続く老舗寿司屋の二代目社長。高校卒業後に渡米し起業。帰国後も小売卸業や飲食店などを開業し、2001年にはタリーズコーヒーの九州1号店を開店。2012年には九州パンケーキミックスを開発し、九州や台湾をはじめ国内外に展開、熱狂的な支持を得る。現在も「一平寿し」、「タリーズコーヒー」、「九州パンケーキカフェ」など多数の飲食店舗を経営する。

ローカルビジネス界の異端児 2人が語る世界への挑戦<前編>

話題沸騰中”九州パンケーキ”の生みの親、村岡氏が山元町のイチゴワールドへやってきた。ローカルを食ビジネスで盛り上げる2人の起業家の対談。

[写真] 一平代表 村岡氏(左)とGRA代表 岩佐(右)


岩佐)九州パンケーキは、世界的にも有名になっているパンケーキミックスのブランド名で、九州の材料だけを使って作っていてすごく美味しいんです。今日は社長の村岡さんに九州から来て頂きましたので、皆さんぜひ拍手でお迎えください。

村岡)ありがとうございます。九州パンケーキの会社は「一平」という名前で、もともとは寿司屋を営んでいて、今年でちょうど50年を迎えます。父親が先代社長で私は2代目なんですけど、14年前に父が他界したのをきっかけに後を継ぎました。宮崎県内でカフェや飲食店をやっていて、4年半前にはこの九州パンケーキミックスを開発して、今一生懸命広げる活動をしているところです。
コマーシャル映像で原料と産地の名前が流れているように、九州全県から素材を集めてパンケーキミックスを作っています。僕はもともと寿司屋ですが、ちょうど板前がネタ帳を集めるようなイメージですね。宮崎では綾町というところの農薬を使わずに育てられた合鴨農法の発芽玄米を頂いたり、熊本の菊池からは古代米の黒米を、また福岡の糸島というところは、日本の稲作伝来の場所と言われているんですが、そこの赤米を頂いたり。九州全県旅をして一つずつ良い材料を集めていく。そうやって九州パンケーキミックスを作っています。

岩佐)もともと一平寿司という今も続いているお寿司屋さんだったんですよね。一平寿司はすごく有名なお寿司屋さんですけど、なぜ村岡さんは九州パンケーキを作ったんですか?

村岡)地方で生き残っていくってなかなか大変じゃないじゃないですか。僕は商店街の活性化とか地域活動をずっとやっていたんですが、頑張ってもなかなか人は増えないし、空き店舗は増えていきます。30代後半の頃は一年間で述べ300回くらいイベントをやっていました。でも「宮崎一番街商店街」って誰も知らないでしょ。やっぱり、一人の人間や商店街の人間がこれだけ情熱と人生をかけてやっても、なかなか人には伝わっていかない。僕は事業家でもあるので、そこにはビジネスが必要だと思いました。それも、一つの宮崎という場所を売るだけでなく、九州という地域を一つにして売っていきたいという想いがあった。
パンケーキを始めたきっかけですが、宮崎で2010年に口蹄疫という牛の伝染病が流行りました。東国原知事の時ですね。非常事態宣言が出て移動も制限され、僕ら飲食業にとってはお客さんがいなくなり本当に苦労しました。その後も新燃岳が噴火して、町中灰だらけになり、それから鳥インフルエンザも流行りました。2011年に東北では東日本大震災が起こりましたが、九州ではちょうど3.11後に、博多から鹿児島まで九州新幹線が開通したんです。そのおかげで九州は西側が盛り上がってきましたが、東側の宮崎はずっと取り残されていて、経済が停滞していた。自分自身は生き残りをかけて、何か外でも稼げるようなビジネスをしたい。そしてどうせチャレンジをするのであれば、地域を盛り上げられるようなビジネスをしたいと考えて、九州パンケーキを作りました。

岩佐)今地域創生のための色々なビジネスの取り組みがありますが、意外と日本全国で上手くいっている事例は実はほとんどないんですよね。その中で九州パンケーキはこれだけ国内で成功していて、海外でも展開しています。地方創生は行政としてやる方法もあれば我々のようにビジネスの領域でやる方法もありますが、村岡さんはビジネスの領域でどのようにして上手くいったのか、何かコツはありますか?

村岡)さっきローカルビジネスの異端児という紹介がありましたけど、異端児と呼ばれる人自身は異端児とは思っていなくて、普通のことをやっていると思っているんですよね。食品業界でいうと、「県境」が一つの課題だろうなと思います。僕は寿司屋でありカフェオーナーであり、そこからメーカーを立ち上げていくという、まったく違う分野に外から参入していますが、その時に、県の縛りにみんなすごく苦しんでいるような気がしました。国から県や市町村に配分された助成金を申し込んだのですが、僕が言われたのは、「これが『宮崎パンケーキ』だったら助成金を出せるんだけどね」ということです。でも、九州パンケーキは宮崎の会社であって、九州のプロダクトを使っていて、九州の雇用も生み出すことができます。僕はこの時葛藤しましたが、行政からの援助をどう利用するかという以前に、自分が何を生み出したいのか、ということが大事なんですよね。
僕は今日イチゴ狩りに来ているお客さんにパンケーキを3時間くらい焼いていたんですけど、自分がお客さんのために作ってお客さんがすごく嬉しそうに食べてくれるのが、すごく楽しいんですよ。寿司屋でもそうですが、お客さんに食べてもらいたいというのがモチベーションなんです。ミガキイチゴのビジネスもきっと同じで、東京、日本中、世界中で今売る努力をしていますが、きっと最終的にはここのハウスに来てもらって、目の前でお客さんが嬉しそうにイチゴを食べている、その体験を作り出したいんだと思うんですよね。

[写真] パンケーキを作る村岡氏。その前には大量のミガキイチゴを手にしたお客様が大行列だ。


岩佐)そうですね。僕は2011年にGRAを作ったんですが、僕の実家はこのすぐ近くで、近くの中学、仙台の高校に通っていました。2011年に震災が起きた時、故郷を何とかしたいという強い気持ちでここへ戻って来たというのがきっかけです。何をやりたかったかというと、僕には一つの仮説があって、どんなに地理的に条件が悪い場所でも、世界で勝負できる商品、世界の誰にも負けないものがあれば、そこへはどこからでも人が来る、というものです。誰にも負けないテクノロジーと、熟練農家の匠の技がこのイチゴを作っています。その結果、今では国内外から毎年2万人以上の人がこのイチゴワールドへ来てくれるようになりましたし、他のハウスも含めると、山元町には10万人くらい来ているんです。山元町の人口が1万2千人くらいですから、本当にたくさんの人が来てくれています。僕の考えとして、ビジネスで地方創生をやるための一つのキーワードは、人でもサービスでも、世界で勝負できるかどうか、ということだと思うんですが、村岡さんはそのあたりはどうですか?九州パンケーキは台湾にもカフェがありますが、この前行ってみたら2時間待ちで入れなかったんですよ。

村岡)最近、熊本だったら「球磨焼酎」というように、「地域ブランド」という言葉がありますよね。では地域ブランドの定義は何でしょうか?僕は、圧倒的に地元で愛されていることじゃないかなと思うんです。まず地元で圧倒的に支持して頂いて、その町の人が誇りに思えるブランドだからこそ、外側に発信していけると思うんです。九州パンケーキはとにかく九州で愛されたいという思いでこの4年半やってきて、今では九州のどのスーパーでも扱われるようになりました。宮崎の子どもたちは毎朝朝ごはんに九州パンケーキを食べるようになってくれましたし、僕は今学校を回って子どもたちにパンケーキ教室を開いて食育もしています。
まず、地元に愛されたい。そこから自分たちの地域のことを知ってもらいたいという想いで、外側に発信していく。ブランドをローカルに狭く閉じていく。でもマーケットは広く広く狙っていく。僕は九州受け持ちです。九州のことが大好きで九州にしか興味ない。でも九州には僕がいて、一方で東北が好きで東北受け持ちの人がいるから、日本が面白くなっていく。九州受け持ちの僕と東北受け持ちの岩佐さんとがここで出会って化学反応が起きるから、今日来てくれたお客さんがすごく笑顔になって楽しんでいってくれると思うんです。

岩佐)午前中もものすごく熱狂的でしたね。300名以上のお客さんがイチゴ狩りにお見えになって半分以上が九州パンケーキを買ってくれた。九州産のいい材料が合わさって、確実にお客さんに受けるなという感覚がありました。
僕は村岡さん自身の生き方にもものすごく興味があります。村岡さんは寿司が握れて、英語が喋れて、パンケーキが焼ける。世間では村岡さん三大不思議だと噂されています(笑)実際はわかりませんが、最近、若い世代はなかなか内向きになってきていると言われますね。村岡さんは若い頃アメリカで起業していたり、九州パンケーキも台湾などにどんどん展開したりしていますが、今の世代と村岡さんと違いはありますか?


村岡)僕は18歳の時に宮崎が嫌で、寿司屋を継ぎたくなくて海外へ飛び出したけど、どうでしょうね。台湾の九州パンケーキカフェは開業後2年経って未だに1か月待ちという有り難い状況ですが、台湾の起業家たちと話していて最近カルチャーショックだったのは、台湾の起業家たちは初めから台湾だけを見ていないんですよね。そもそも島国で2500万人しかいないので、初めから香港や中国を見てビジネスしています。
九州は人口1500万人ほどです。僕は宮崎の生まれですが、宮崎は新幹線も走っていないくらい取り残されているくらいです。よく「東京でなくてシンガポールや台湾に店を出してリスクはないんですか」と聞かれるけど、宮崎からすると、東京も福岡も、台北もシンガポールも、みんなグローバルなんですよね。じゃあ「日本の九州」を売り出す時に、東京と台湾ではどっちが「日本の九州」というところにレバレッジをきかせられるか?47都道府県とそれ以上の市町村のアンテナショップがたくさん競い合っている東京よりも、台湾の方が熱狂的に「日本の九州」を迎えてくれる。すごくシンプルに勝負をしていると思うんですよね。

岩佐)きっと日本と海外の間にボーダーラインはなくて、マーケットがあるところへ勝負しにいくという、ものすごくシンプルな発想なんですよね。

村岡)そう思います。今真剣に考えていることは、東北と九州が付加価値を交換することで何かビジネスを生み出せないかと考えているんですよね。昨年4月の熊本地震の時に、島の真ん中にある熊本で、こんなにモノが動かなくなるのかというほど、九州が分断されていました。
僕は東北の震災後、2011年8月に初めて福島に来てボランティアをしていましたが、その時僕はちょうどパンケーキミックスの開発をしていたので、九州のミックスとこの東北で出会った美味しい牛乳やイチゴなどを使って、世界一美味しいパンケーキを作りたい、そして日本の色々な場所でカフェを作れないかという夢を持ちました。僕はパンケーキの世界の人間なので、できることは小さいですけど、これは一つの日本の象徴的なビジネスになるんじゃないかなと。

岩佐)パンケーキの面白いところは、イチゴはもちろん何でも合うところですよね。魚の町とコラボしても面白いし、その町のいいもの、人々に愛されるものとコラボしていけば、宮崎みたいに必ずしも行くのに便利じゃない場所もハブになると思うんです。宮崎に九州パンケーキカフェがあるんですが、ここはいつも大行列なんです。宮崎は日本で一番自給が安い県で、県庁所在地の中で沖縄に抜かれて所得も最下位になんですが、場所はほとんど関係ないんです。ビジネスをやるときに、自分の地域は場所が悪い、条件が悪い、と考えると思うんですけど、みなさん旅行に行く時にはどれほど不便な場所でも、そこに面白いものがあれば行くと思うんですよね。自分の置かれている場所で何かベストなものが作れたら、多くの人が集まってくる場所というのは必ずできると思います。山元町も福島との県境で、必ずしもアクセスは良くないですが、ここに居を構えていこうというのは、村岡さんから勉強させてもらいました。

村岡)日本中みんな「誘客」と言っていますね。日本中、どうやってうちの町に観光客を奪い合うかと誘客していますが、「送客」しませんか?地域と地域が結びあって人を送り合うんですよ。この中で10人組んで宮崎来ませんか?そしたら宮崎の人10人でツアー組んで山元に連れてくるので。宮崎のことなら僕がいっぱい知っていますが、山元のことはみなさんが一番知っています。それぞれの町の良さを伝えるには、知っている人に案内してもらうのが一番いい。「送客」というのが、最近面白いなあと思うんですよね。


<後編へ続く>



村岡 浩司
有限会社一平 代表取締役。1970年宮崎県宮崎市出身。1966年から続く老舗寿司屋の二代目社長。高校卒業後に渡米し起業。帰国後も小売卸業や飲食店などを開業し、2001年にはタリーズコーヒーの九州1号店を開店。2012年には九州パンケーキミックスを開発し、九州や台湾をはじめ国内外に展開、熱狂的な支持を得る。現在も「一平寿し」、「タリーズコーヒー」、「九州パンケーキカフェ」など多数の飲食店舗を経営する。

絵文字とスタンプをつかいまくってストレスフリーになろう!



最近、予防医学研究者の石川善樹さんと久しぶりに再会したので、ストレスについていろいろ語りました。今日はそこから得られた示唆を共有します。

24歳で最初の事業を興してから15年になります。その間、ストレスが原因でどん底まで落ち込むことが数年おきにあったのですが、最近は随分楽になりました。ある一つのことを意識するようになってからです。

人間は人に対する愛情や感謝の気持ちを表現したり、相手がうまくいくように貢献したりしようとすればするほどストレスが少なくなるようです。つまり心の安定には「自利利他」がとても大切だということです。

「自利利他」とは仏教の言葉のひとつですが、書き下すと「自利とは利他を言う」となります。つまり、人のために何かをすることは自分のためであるし、自分のためを思うならば、人に利することをやることが大切だということです。

逆にどういう時にひどくストレスがたまるかというと、「感謝」や「愛情」の表現なしで意思決定を繰り返さなくてはならない時です。意思決定とは決定するわけですから、時に片一方のアイデアを切り捨てたり、時には人を切る決定もあります。

そのような意思決定を毎日無数に繰り返すのが経営者の仕事です。楽ではありません。しかもそんな辛い意思決定をネット、例えばメールやSNSで365日繰り返しているとあっという間にそのリーダーの心は疲弊してきます。そのうちにダークサイドに陥り、判断のすべてがくるってきます。愛が足りなくなってくるからです。

メールやSNSでの意思決定が辛いのは、それが直接的に会ってそれを伝えるよりも、はるかにその意思決定に「愛情」や「感謝」を乗っけることが難しいからです。それでも語尾を変えたり、言い回しを変えたり、絵文字やスタンプを使ったりなど工夫をすることで随分違うんです。どんな方法でもいいので愛を乗っけるのです。愛が足りなくなると傷つくのは自分自身です。

「欧米で生まれたメールというツールは用件だけを単刀直入に伝えるようにしましょう」という新人研修を直解して、ファクトと用件だけを伝え放つ人があまりにも多いのは残念です。メールはもちろん冗長になるべきではないですが、削るべきは「前略、〇〇様におかれましては、、、お慶び申し上げます」などの下りであって、愛は削ってはいけません。
当然ですが欧米人も感謝の気持ちをメールに添えます。

もしかするとメールには1行ごとにスタンプや絵文字を挿入しても多すぎないくらいです。一文節に1スタンプでもいいかも!それで自分の想いが伝わるのであれば。威厳なども大切なのかもしれませんがそれは、決してメールなどで示すものではありません。

経営者が出社している時間は、とにかく人との直接的なコミュニケーションに時間を使うべきでしょう。出社しているのに、メールやネットをばかりをしていてはもったいないです。私は出張が多いので、会社の執務室にいる時間が本当に少ないのですが、そこにいるときは社員のみんなとのコミュニケーションに集中するようにしています。くだらない話をすることも多いのですが、触れ合っているだけで想いは伝わるものです。

経営者の精神衛生においても、直接コミュニケーションは最高の手段です。メールや書きものは会社では一切やらずに移動時間の間に集中して全部終わらせます。

ストレスに関連することで、経営者が一番意識すべきは「自利利他」です。「愛情」や「感謝」を真正面から伝える、好きな人には好きという。つらい意思決定に際しては普段の倍の「愛情」と「感謝」を乗っける。そして自分とかかわりを持つすべての人の成長と成功を考える(例えその人のことが嫌いであっても)。

すごくシンプルだけどおすすめな習慣です。


シチリア人のレナータさんが岩手県遠野市に移住する理由 <後編>

左:GRA代表岩佐、右:レナータさん 夕暮れ時のシラクサにて


岩手県の遠野へ移住することになったシチリア人のレナータさん。彼女の話を聞くほど、こんなにも素晴らしい人が好きになってくれた東北を僕は誇りに思う。そんな彼女がNext Commons Labを通して実現したい社会、そして彼女の根底にある思いを深く探ってみた。【後編】

<前編はこちら>

岩佐)Next Commons Labでは、「ポスト資本主義」の社会を作りたいと言っていましたね。これは、どのような社会をイメージした言葉ですか?

レナータ)「ポスト資本主義」というとコミュニストと思われる人も多いかもしれませんが、そうではありません。資本主義や共産主義を否定するわけではなく、それぞれの良いところを繋いで、地域に眠る資源を生かしながら、更に豊かな社会を作りたいんです。

私たちは言葉をすごく大事にしています。「消費者」と「生産者」、そして「コミュニティ」はこのプロジェクトの重要なポイントだと思っています。「生産者」や「消費者」は資本主義の言葉ですが、ただ消費されるために生産者がいるわけではないですよね。次の社会では「楽しんで作る人」と「楽しんで食べる人」の関係です。それなら「消費者」は「コンシューマー」ではなく、「楽しんで食べる人」というような意味の言葉を作るべきです。日本には漢字がありとても言葉が柔軟なので、英語から派生するような最近外から入ってきた言葉ではなく、自分の国の言葉のコンビネーションを使って新しい言葉を作り出すべきだと思っています。「ポスト資本主義」という言葉でなくても良いのですが、そういった形で、お金だけではなくその地域の価値を大切にするような社会、という言葉があると良いです。

私自身は「ポスト資本主義」を「ポストグロース」だと考えています。資本主義に完全に反対するわけでなく、成長した後に何をするのか、を新しい社会は求めています。だから新しい社会を作るにあたって強いメッセージとなる新しい言葉を作るべきだと思うんです。やらなければいけないことをやり終えた後は、やりたいことをやりたい。「ポストグロース」は成熟とも違う。成長の次の社会で人はどう幸せになるか、ということを考えています。

岩佐)言葉を作る。とても面白い考えですね。僕も言葉作りが大好きです。「甘酸っぱい」社会とかどうですか?甘酸っぱいについては、まで書いちゃったくらいです。(笑)

レナータ)「甘酸っぱい」はいいですね。人と人が繋がる力を愛というのであれば、「愛」という言葉でもいい。日本人は「愛」という言葉を恥ずかしがりますが、それなら「エネルギー」という言葉に置き換えてもいい。どうポスト資本主義が愛やエネルギーに繋がるかはまだ思索中ですが、愛を持って違う形のものと一緒に頑張れる社会ができたらいい。今までの資本主義ではcompetition、つまり競争がいいものとされていたと思います。でもcompetitionの語源はラテン語から来ていますが、「com」は「一緒に」、「pathos」は「苦しみ」という意味です。同じ苦しみを共有して一緒に頑張ろう、という語源なのに、いつの間にか意味が単なる「競争」、「敵対」になってしまっています。


[写真]ローマ時代のコロッセオがあり、シラクサは町中が世界遺産


岩佐)それはすごく面白い。GRAは新規就農者を育てていて、「将来ライバルになるかもしれない人を育てる事業をしているんですか?」とよく聞かれるんですが、僕は、ライバルが増えたとしても農業全体が盛り上がったらそれでいいと思っている。まさに「co-creation(=共創)」という考えを僕らはとても大事にしています。日本語にも「競争」と「共創」、同じ発音で両方の意味があるから、competition と一緒ですね。レナータさんの言う「ポスト資本主義」は「共創社会」ということなんでしょうね。誰かだけが一人で勝つのではなくて一緒に協力するということ。「集団出世主義」という言葉が僕はすごく好きです。自分だけ上手くいくよりも、みんなで上手くいく方が結果は良くなります。それと「共創」という概念は共通すると思う。これからは資本だけを持っている人が一人で勝つために頑張るよりも、みんなでco-creationできる人の方が、絶対上手くいくと思う。仮にその結果を一人一人の富に換算したとしても、富以外の価値に換算してもね。

レナータさんは何に影響されて、ポスト資本主義や新しい価値観というものを考えるようになったんですか?


レナータ)人生のプロセスの中でだんだんとそう思うようになりましたが、特にロンドンで働いていた体験は大きいかもしれません。家が買えずにおばあちゃんとシェアハウスする生活、友達はみんな出ていく町。お金がないと何もできないなんて、変だと思いました。また通勤電車の人の顔を見ると、みんな顔が死んでいます。仕事に行くのがつまらなそうなのに、お金を稼ぐために働く人が多い。銀行時代、プレッシャーはありましたが、それでも私は仕事が好きでいつも元気に会社へ行っていました。でも多くの人は同じようなスーツを着て、悲しそうな顔で会社へ行き、みんな月曜日を嫌がり、金曜日を喜ぶ。苦しんで仕事をして週末にだけお金を使う。私は月曜日から日曜日まで毎日楽しかったので、みんな何のために生きているんだろうと思っていました。

また、ロンドンで修士課程が終わる頃、トップの成績の人たちはみんな金融機関に入りたがり、みんなマーケットのことだけに集中していました。でもスペインへ行ったら、誰もFinancial Timesを読んでないし、スーツも着てない。お金のために働くのはおかしいんじゃないかとますます思うようになりましたね。銀行時代、市況に合わせて顧客からマージンを取る仕事をしていましたが、私はお客さんが好きなのに、なぜ銀行のためにお客さんに黙って高いマージンを取らなければいけないのかと、悩んだことも大きかったです。

私は最終的にはお金がいらない社会を作りたい。ITの進歩のおかげでそれが可能になると思っています。物々交換から貨幣社会と、「exchange」の精神のもとに人間は生きてきましたが、そうでなく「give」の精神になればいいなと。

岩佐)お金の重要性が減ることについては僕も賛成です。時に金はとっても窮屈な道具になりますから。でも仮に、自分の信義に反するものでなければ、資本主義や貨幣経済もいいものだと思いますか?

レナータ)トリオドス銀行の講演で面白い話を聞いたことがあります。お金は経済における血液と言われますが、現代の社会は病気になっていて、血液(=お金)の巡りが悪くなり、癌のように一部の場所に、血液(=お金)が溜まっています。だから、お金を社会全体に適切に巡らすためにethic bankが必要なんです、というスピーチでした。

でも更に私が思うのは、今ITがすごく発展していますよね。昔は「Dependent society」、次に「Consumer society」、今は「Creative society」と来ていますが、次に来るのは「Strategic Society」だと思うんです。自分自身の知恵や魅力自体の価値をお互いに評価してもらえるような社会、そんな社会がITのおかげでできると思います。「支倉2.0プログラム」というプロジェクトをやっていた時私はお金を貰っていませんでしたが、それでもプロジェクトを行うことができたのは、市などが協力してくれたからです。プロジェクトを手伝ってくれた学生にも私はお金を払ってないけど、私と働くおかげで新しいメンタリティや人との繋がりが得られたことは、彼らにとってお金に換えられない経験になったと思います。今の社会の問題は、お金がないと何もできないということ。もちろんお金はすごく大事ですが、昔は社会の中でお金はツールだったのに、今はお金が中心になってしまっている。では、どうすればお金の重要さを減らしていき、新しい価値が認められるようになるかを考えなければいけません。


[写真]左:レナータさん、右:岩佐 活気のある広場は南国の開放感を感じさせる


岩佐)そんな社会を作る方法が、「ポスト資本主義」の価値観を作ることであり、新しい言葉でそれを表現することなんですね。レナータさんの社会を変えたいというモチベーションの根底にあるのは、先ほど言っていた「愛」なんでしょうか?

レナータ)もしかしたら方法は途中で変わっていくかもしれませんが、そういう社会を作りたいという、根底にある思いは変わりません。目的地まで行きたいと思ったら、真っ直ぐ行くのが早い。でも真っ直ぐ行くことができなかったら方法は変えてもいい。今はお金と愛と言葉について考えることが、価値観を作る大事なポイントだと思っています。でもそれだけで変わらなかったら他の手段を考えます。みんなが社会起業家になればいいと思うけど、そうはなれないから、例えば大企業のメンタリティを少しずつ変えていくとか、働きながらソーシャルセクターに関わるとかでもいい。

愛については、地球も生物も植物も人間ももともとは同じものなのに、人間が勝手に違うものとして区別して考えているだけですよね。そうしていがみ合うのはおかしい。私は新しい人と出会うのは偶然ではなく必然だと考えています。だから、誰かに出会ったらその人に何かお返ししないといけないと感じています。

震災の時、お金があっても食べ物がないと意味がないし、また、周りに自然はたくさんあるけれど、エネルギーが切れたら何もできないということを感じました。そしてその状況で、人との繋がりが生きることを助けてくれるということも。だから私も、人との繋がりを大切にして、出会った人へのお返しをしていきたいと考えています。そして語弊があるかもしれませんが、津波も必然で、何か起きた理由があると思っています。津波の後、家や畑が何もなくなってしまったけれど、とても海がきれいでした。

岩佐)確かに、理由はあると思います。もしかしたら津波はrecreation(=再創造)の機会だったのかもしれない。そして残念ながら人間はrecreationとして受け入れなかったから、無駄な防潮堤ができてしまったのかもしれない。震災後の最初の2年くらいは僕らも生きることに本当に必死で、誰も争う余裕もお金のことを考える余裕もなかった。でも5年経つと少しずつ変わっていって、今はいがみ合いなどが起きるようになってきているのも事実です。残念ながら、最近の東北で起きていることは、ポスト震災の醜い権力争いですよ。

レナータさんはバルセロナにいた頃から支倉2.0プログラムで日本のことを欧州に紹介したりと、大きく日本に関わってくれていたわけですが、敢えて遠野に住むと決断した一番の理由は、レナータさんの実現したい社会をこのNext Commons Labに日本の中から関わることで、実現できると思ったからですよね。今回3人の子供たちも一緒に遠野に住むと思いますが、子供達に日本への移住の話をした時にはリアクションはどうでした?



[写真]地中海を眺めるレナータさんと娘 シチリア人は泳ぎがとても上手だ


レナータ)15歳の長男はとても頭が良いので、楽なライフスタイルを送ることを嫌だと思っていました。今いるバルセロナは安全で安心でとてもいい社会ですが、世界は本当はこうではないと考えています。もっと色々なことにチャレンジしたいので日本に住みたいと、すぐに言ってくれました。

今年中学一年生の長女は気が強く、自分とペットの犬のピンパのことを中心に考えていたため最初は、どこへ行くか、何をするかさえ聞かずに、頑なに行きたくないと言われました。もう中学生なので自由に決めていいよ、でもピンパは一緒に日本へ行くよと言ったところ、ピンパが大好きな彼女も日本へ行くと。最近はやっと遠野のことを教えてほしいと聞いてくるようになりました。

次女は、みんな行くよと言ったら、すぐに一緒に行くと言ってくれましたね。多分まだ日本のイメージはついてないと思います。

岩佐)早く子供たちが日本に慣れるといいですね。子供を連れて知らない土地に入るというのは相当なチャレンジだと思いますが、僕も最大限サポートします。日本に行くにあたって一番の心配はやはり子供が日本に馴染めるかどうか、でしょうか?僕もそうでしたが、東北の中学生はシャイですよ(笑)

レナータ)そうですね。子供たちはオープンマインドだと思います。それでも自分にとっても子供にとっても最もチャレンジだと思うのは、どう地元の人に受け入れてもらうか、そして自分が仕事と家庭をどう両立するか、ということですね。応援してくれる人がたくさんいて、子供たちもついてきてくれるのに、上手く遠野に受け入れられなかったら、というのが一番怖い。遠野の人を使って私たちがやりたいことを勝手にやる、のではなく、一緒に協力しながらやる、というマインドでやりたいです。遠野を助けるために行くのではなく、縁があって遠野でやりたいと。私たちは、遠野が面白い素敵な町だと思ったから行きたいんです。

確かに子供を連れて、新しい土地で、そして長時間働く日本の組織で仕事をするのはチャレンジです。でも、ワーカホリックなことが日本人のアイデンティティだと思っている人が多いですが、私は違うと思います。同じ人間なので集中力は5時間くらいでなくなります。ちゃんと休憩取らないとcreationもinnovationもできない。

新しい価値観が社会に浸透することがとても重要で、働く時間が長ければいいと日本人は考える人が多いですが、例えば北欧は残業する人少なく、家族の時間を大事にする社会です。同じようなシステムが日本でできないはずはない。

岩佐)確かに、今回僕もシチリアで普段と違うゆったりとした時の流れの中で過ごしたせいか、普段はしない意思決定をしました。シチリアから日本に電話して、投資していた株や不動産を全部売ることにしちゃいましたよ(笑)。何を大事にするか、という価値観は、先ほどの「ポスト資本主義」で実現したい社会にも大きく関係がありますね。最後に、震災後日本に住んで日本でそんな社会を実現したいと強く思ってくれたのは、日本の何がレナータさんの琴線に触れたからなんでしょうか。

レナータ)実は震災が起こるまで、私はボランティアをやったことがありませんでした。でも縁あって、友達がいたので東北へ行ったとき、何かを変えたいと思いました。最初は助けたいと思ったけれど、岩佐さんをはじめ素晴らしい社会起業家の人たちと出会って、助けは必要なく、それよりも一緒に何かをやりたいなと。言葉には表せませんが、あの光景を見て何かが自分の中でキックしたのは間違いないです。そして縁があって、遠野という素晴らしい町とNext Commons Labという素晴らしい団体に出会えたのです。これから色々なチャレンジが待ち構えているとは思いますが、多くの人と一緒にプロジェクトができることを心から楽しみにしています。


Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。イタリア、シチリア島生まれ、ヴェネツィア大学日本語学科卒業、早稲田大学政治経済学部客員研究員、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)卒業。全日空、東京三菱銀行(ロンドン)を経て、スペイン外務省直轄外交機関Casa Asia(Asia House)に10年間プロジェクト・コーディネーターとして勤務。以後日本ならびにアジア各国関連の講演会、展示会、セミナーなど経済・文化交流活動に従事。3.11以降、東北地方に何度も渡り長期間滞在し、強固なネットワークを築く。震災のあと東北に生み出したイノベーションを海外に紹介して、東北と欧州ビジネス交流を推進のため2013年「NPO法人支倉プログラム」を設立。

シチリア人のレナータさんが岩手県遠野市に移住する理由 <前編>

[写真]左:GRA代表岩佐、右:レナータさん。シチリア島シラクサにて


Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。スペイン・バルセロナ在住のシチリア人で、僕のもっとも尊敬する人物の一人だ。4年前に彼女が立ち上げた「Hasekura 2.0 Program (支倉2.0プログラム)」は日本とヨーロッパの架け橋となり、多くのイノベーションを生み出してきた。そのレナータさんが子供を3人連れて、岩手県の遠野への移住を決意した。【前編】

岩佐)もうすぐレナータさんが日本へ来るのをすごく楽しみにしています。僕はレナータさんに4年前に出会って以来色々な仕事を一緒にしてきましたが、今回は、どうしてこんなにすごい人が様々なチャレンジが待ち構えている日本に住むことにしたんだろう、とその理由を知りたく、そのためにはレナータさんのルーツを知らなくてはと、ここシチリアのシラクサまで来ました。まず、日本ではどんなプロジェクトをやる予定なのか聞かせてください。

レナータ)「Next Commons Lab」というプロジェクトをやるために、岩手県遠野市という人口3万人くらいの町に9月から住むことにしました。Next Commons Labは林篤志さんという人が設立した、日本の地方から「ポスト資本主義社会」を作りましょう、というプロジェクトです。国や市、大企業などと一緒に、地域に眠っている価値や資源を再発見して、これからの社会を資本主義以外の観点からも更に豊かにしていくことを目的としています。

Next Commons Labが遠野市や地元の人と協力しながら新しいプロジェクトを決めて、そのプロジェクトを実現したい起業家に来てもらい、3年間スタートアップのための資金を出す。資金源は総務省の地域おこし協力隊と、遠野市、そしてイノベーションを起こしたいと考える大企業です。先日、都会に住んでいる起業家を募集したところ200人以上の応募があり、そのうち15人ほどが遠野に移住してプロジェクトをすることになりました。Next Commons Labはプロジェクトの運営や起業家のサポートなど、新しいプロジェクトのコーディネーションをします。

例えば、遠野市はビールの原料のホップの名産地なのでクラフトビールのツーリズムを行ったり、濁酒の酒造特区を作り、ローカルパートナーや大企業と一緒に濁酒を世界に発信していったりします。また、できる限り地元の人を巻き込んで一緒にやりたいので、「市民大学」という地元の人と外部の人が相互に教えあうような場のコーディネートや、新しく遠野に住みたい人と遠野の空き家のマッチングをする不動産プロジェクトも行います。

行政、ローカルパートナー、大企業、と様々なセクターとの連携を私たちがコーディネーションすることで、行政にとっては町の活性化を、そしてローカルパートナーは外部の人材や資源を使って地元の事業を大きくすることができます。また大企業も資金や社員を送って協力してくれる予定ですが、例えば濁酒の発酵過程で出る菌を研究し新しいサプリメントの開発に生かすロート製薬のように、企業にとってもイノベーションの種を探ることができるんです。他にもキリンやGoogleなども協力してくれる予定です。

岩佐)今までもレナータさんは、拠点のあるバルセロナから何度も日本に来てくれていますが、今回日本に移住を決意した理由はなんでしょうか。そのプロジェクトにレナータさんが関わる理由は、遠野市からグローバルな課題解決に繋げたいからですか?

レナータ)一番の理由は、林さんのビジョンが私のビジョンに近かったからです。震災後のこの4年間はずっと東北を回り何人もの社会起業家に出会って、私もスペインからではなく日本の中から関わりたいと思うようになりました。実際に中に入らないと、遠野でこういうことをやりたい、遠野はすごくいい町だ、とどんなに言っても説得力はないでしょう。また、海外の視点や国際間のネットワークも重要なので、外国人の私がNext Commons Labのメンバーとして入ることで、必ず役に立てることがあると思っています。今決定している10個のプロジェクトの他にも、私は海外との繋がりを作りたい。遠野の国際化、遠野に来た外国人のツーリズムをやりたいし、遠野のプロジェクトをソーシャルビジネスに興味ある世界中の人に紹介したいです。

今回パイロットプロジェクトとして遠野市からスタートしますが、段階的に全国で展開していく予定です。幸いなことに、とても多くの人たちがこのプロジェクトに興味を持ってくれています。


[写真]常にアクティブなレナータさん。


岩佐)今回遠野に何百人も応募したってすごい。遠野に移住するわけですよね。それだけ地方に住みたい人が多いんですね。レナータさんや林さんのようなすごい方がいらっしゃる遠野が羨ましいです。なかなかこんなにすごい人たちが集まる地域はないと思う。その一方で、今回パイロットプロジェクトをやるにあたってのチャレンジ(難所)は何でしょうか?

レナータ)二つあります。一つは、予算ももちろんですが、人材が足りない。一回に10個以上のプロジェクトが同時に行われるので、少ない人数で全てのコーディネーションをするのはとてもチャレンジです。いずれ他の町でもプロジェクトが始まる予定ですが、現在5人しかいないので人をどうするか、が課題ですね。

また、2011年に初めて遠野に行きましたが、町はとてもきれいだし、自治体がこういうプロジェクトを受け入れるというオープンさがすごいと思います。何年以上も前から務めている市長がこういうオープンさを持つというのはとても素晴らしい。そんな町なので何としてでもこのプロジェクトを成功させたいわけなのですが、最もチャレンジになると思うのは、突然外から新しく入ってくる人に対して地元の人がどう思うのか、ということです。一番大事なポイントは、できるかぎり町の人に受け入れてもらえるように、私たちがやりたいことをちゃんと伝えることだと思っています。

岩佐)地域の中で新しいことや変わったことをやろうとすると、必ずそれに反対する人がいる。僕はこの5年間、新しいことに挑戦しながらも、道半ばで守旧派のプレッシャーに耐えかねて地方を去った人を数多く見てきたのですが、今回のプログラムは大丈夫でしょうか?

レナータ)どの国にもどの地域にも必ずそういう人はいますね。それは仕方ないことですが、私たちのプロジェクトは一緒にやってくれる素晴らしいローカルパートナーがいて、行政も協力してくれるとてもいいシステムができあがっています。私たちも、イベントや人の集まる「Food Hub」というカフェや「市民大学」、またコーワーキングスペースを作るなどして、新しい人が来て勝手に町を作るのではなくて、地元の人に来てもらって巻き込んでいき、地元の人と一緒に作るように心がけています。Next Commons Labの設立者である林さんや、東京出身で遠野に移住してきた人、遠野の老舗のお店の方など多くの人が協力的で、外部と遠野の中の人との繋ぎ役になってくれています。

岩佐)地域をうまく巻き込んでいるんですね。地元の行政とそこで力を持っているローカルパートナーに加えて、大企業まで巻き込んでいるこのプロジェクト。成功すればあらゆる地方に変革をもたらすすごいモデルになりそうですね。

次にレナータさん自身のことについて聞いてみたいです。僕は今回初めてシチリア島に来て、海はとてもきれいで人もとても大らかな素敵な町が多いですが、日本の田舎と通じるところもあるように感じました。保守的で少し寂しげな雰囲気もある。レナータさんはこのシチリア島のシラクサで生まれ育ったんですよね。この町はどのような町でしたか?


レナータ)1969年にシラクサで生まれて、途中でアメリカやイギリスに留学をしていた時期もありますが、18歳までは基本的にシラクサで暮らしていました。雰囲気は普通の田舎町で、東北に似ている部分も多いように思います。

シラクサはBC750年頃にギリシャのコリントスの植民者が作った町で、ギリシャ時代はアテネよりも栄えていました。古くから漁業と、レモン、アーモンド、オリーブなどの農業が盛んな肥沃な町でした。シチリアはずっと色々な国の植民地として支配されていた歴史を持っています。ローマ、アラブ人、ノルマン人、スペインのカタラン人などで、特に7世紀頃支配していたアラブ人の影響は未だに強く残っています。

民族はイタリア本土と一緒ですが、メンタリティや考え方はイタリア本土とはかなり違うように感じます。島国だし、植民地支配の後もマフィアが牛耳っていて、常に誰かに支配されていた歴史のためでしょう。戦時中にアメリカ軍をシチリアからイタリアに入れるように裏で手立てをしたのは、アメリカにいたシチリア系マフィアでした。マフィアの権力はいまだに根強く残っていますし、シチリアのリソースを搾取してここの経済を動かしてきたのは北イタリアの大企業です。

つまり、シチリアでは自由に何かをコントロールするという制度や風習がありません。シチリアは多くの資源があるのでそこまで貧しくはない島ですが、どういう風にここを開発するかは全て北イタリアやマフィアが決めていたので、私たち南イタリアはお金を自分の手で使い、自分の力、自分のイニシアティブで開発することができませんでした。そのためここの人たちの良くない部分は、みんな社会の問題を誰も自分の問題とせず責任を取らないことです。シチリアはメンタリティが問題で、変わりたいと考える人もいますが、歴史的にパワー持っている人が常に主導で社会を作ってきたため、人々は変わりたくても変われないのです。


[写真]シラクサの町から臨む地中海


岩佐)植民地やマフィアの問題は根深いですね。シラクサの近くの町、ノートというところへ行った際にも強く感じました。レナータさんはどうしてそんなシラクサで育ったのに、ここを出る決断をしたのでしょうか。日本との出会いはいつでしたか?

レナータ)シチリアには18歳までいましたが、家族の影響で中高時代にイギリスやアメリカに留学したこともあり、昔から異文化への興味は強かったです。日本との出会いは、ずっとやっていた水泳を怪我で辞めた後、ヴェネツィア大学の日本語学科に入ったことですね。これまで学校で西洋文化や英語、ラテン語、フランス語などの勉強はしていたので、次はあまり知らない東洋について勉強したいと思ったのです。東洋の中でも、1980年頃ちょうど日本はバブル中だったので、なぜこんな小さい国が経済成長をしているのだろうと興味を持ち、加えて「3つのD」 、Distant(=家からヴェネツィアが遠かったこと)、Different(=日本語や日本文化をこちらの人達はほとんど知らないこと)、Difficult(=難しくて大変そうだということ)で、日本について勉強しようと思いました。

大学時代、日本に留学したこともあります。大学2年目を終えた後、3か月間落合シェフのお店「グラナダ」でアルバイトをしながら日本に留学し、卒業後にまた1年間東京に住みました。再び落合シェフのところでアルバイトをしながら、早稲田大学の客員研究員として冷戦後の日本とイタリアの比較政治学を学びました。

私は日本があまりに大好きで日本にいるときの自分は欧州にいるときと全く別人になっていました。その頃から日本に住みたいと思っていたのですが、当時のボーイフレンドは日本に馴染めず、アムステルダムの建築の大学院に入学にすることになりました。そこで私も彼に合わせて欧州に帰ることにし、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)という大学院に入りました。1年間の修士課程は、勉強はとても大変でしたが一番楽しい年でしたね。24歳の頃です。

SOAS卒業後は、ロンドンにて全日空の欧州拠点で働いた後、東京三菱銀行のロンドン現地法人で日系企業担当の仕事をしました。同僚も顧客も日本人の環境で、数字のプレッシャーもありタフな仕事でしたが、上司に恵まれてとても楽しい2年間でした。

でも30歳になる頃、このままで良いのかと悩んでいました。ロンドンはとても国際的な町で面白い友達が多かったですが、みんな次々とイギリス国外へ行ってしまいます。またロンドンは物価が高くて家が買えず、90歳の女性とアパートをシェアしていた生活もどうかと思い、当時付き合っていたボーイフレンドが住みたがっていたバルセロナへ一緒に行くことにしました。ロンドンとあまりに違う明るい空に惚れこみ、バルセロナに住み始めたのが1999年の終わり頃です。

バルセロナで出会ったカタラン人と結婚をして、長男が誕生しました。最初は夫や同僚からスペイン語を学びながらready-made officeのセンターマネージャーとして働いていましたが、当時の上司がready-made officeのお客さんだったスペイン外務省のシンクタンクCasa Asiaへ私を推薦してくれたため、Casa Asiaに転職しました。2002年から3人目の子供の誕生後まで勤め、子供の学校の活動と両立しながらのハードな10年間でしたが、経済・文化交流事業やインドでのカンファレンスの担当など、幅広く非常にエキサイティングな仕事でした。


[写真]GRA代表 岩佐


岩佐)レナータさんは学問や仕事を通して長い間日本との繋がりはあったということですが、今回移住にまで至った大きな転機は何でしょうか。

レナータ)大きなきっかけは、2011年3月に起きた東北の震災です。当時スペインでも大ニュースになっていました。東京三菱銀行時代の大好きな同僚を久々にフェイスブックで見つけて、心配と同時に日本への情熱が再燃しました。何とかしてもう一度日本語を読みたい、話したい、と思って勉強をし直し、またSOAS時代の先生の伝手を辿り東北へ何度も行きました。

日本からバルセロナに戻っても、私の心はずっと気仙沼にありましたね。どうしても日本に住みたいと思いながら、気仙沼在住の日本人のブログを読む毎日でした。日本に住むためには日本語をもっと勉強しないといけないと思い、仕事後は子供の世話し、夜中に勉強をして、2012年1月に日本語能力試験のN2に受かったのです。

岩佐)レナータさんは僕より日本語が上手かもしれないですね(笑)。確か僕らが初めて会ったのは2012年夏頃の仙台だったと思うんですが、その頃はCasa Asiaの仕事はどうしていたんですか?

レナータ)スペインは当時不景気だったにも拘らず、2012年の7月にCasa Asiaという安定した良い仕事を辞めてしまいました。日本で仕事を見つけたかったんです。3人の子供をシチリアにいる母や姉に預けて、3か月の観光ビザで日本へ行きました。2012年7月から9月、全日空時代の同僚の友達のアパートを貸してもらい、東北を回っていた時に岩佐さんにも会ったんですね。

Financial Timesで読んだETICという団体についての記事に感化され、メンバーである石川さんにメールを出して会いに行くなど、とにかくたくさんの人に会いに行きました。石川さんに会ってソーシャルビジネスというものを知って、大きな衝撃を受けましたね。お金持ちのためではなく、社会のためにビジネスができるんだと。日本のソーシャルビジネスを世界に紹介したいと思い、2012年から「支倉2.0プログラム」というプロジェクトを立ち上げ、Casa Asia勤務時代の行政とのネットワークを使って、IESEというビジネススクールやバルセロナ市、観光局など、不景気の中たくさんの人に協力してもらいました。当時、日本へのパッションだけで説得をしていましたね。スペースを貸してくれたり宣伝をしてくれたり、本当にありがたかったです。

岩佐)レナータさんのおかげで日本、特に東北のことが欧州に広まり、僕もIESEやIEビジネススクールで講演をさせてもらったこともありましたね。支倉2.0のプロジェクトでは、レナータさんは資金をどう工面していたんですか?

レナータ)ほぼ全部ボランティアです。アパートを売ったお金でやっていたので、子供3人を養いながらの生活は大変でしたが、日本を海外に紹介するためにはそれでも良いと思っていたんです。でも回を重ねるごとに徐々に協力してくれる人が増え、日本の起業家を欧州へ連れてくる際の交通費や宿泊代などは賄えるようになりました。

岩佐)レナータさんのパッションと行動力が本当に素晴らしいです。あの時のレナータさんのパワーはすごかった。ここぞという時に命を惜しまず動きまくっていた。それがこれから参画する予定のNext Commons Labや、念願の日本移住にも繋がっていったんですね。それにしてもまさか遠野に移住するとはびっくりですよ!


<後編へ続く>


Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。イタリア、シチリア島生まれ、ヴェネツィア大学日本語学科卒業、早稲田大学政治経済学部客員研究員、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)卒業。全日空、東京三菱銀行(ロンドン)を経て、スペイン外務省直轄外交機関Casa Asia(Asia House)に10年間プロジェクト・コーディネーターとして勤務。以後日本ならびにアジア各国関連の講演会、展示会、セミナーなど経済・文化交流活動に従事。3.11以降、東北地方に何度も渡り長期間滞在し、強固なネットワークを築く。震災のあと東北に生み出したイノベーションを海外に紹介して、東北と欧州ビジネス交流を推進のため2013年「NPO法人支倉プログラム」を設立。

日本でいちばん屋上を愛する男-岡崎富夢の物語<後編>

屋上リビングを一気に庶民に手が届く価格にした男、株式会社PASIO代表 岡崎富夢の物語。豪快な半生を語ってもらいました。

[写真]PASIO代表岡崎富夢(左)とGRA代表岩佐(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」の浴槽にて


<前編はこちら>
<中編はこちら>

2011年1月23日。2つの事業立て直しに成功し、会社での将来が約束されたかに見えた岡崎だが・・・

岡崎)33歳になった俺は再び辞表を会社に出したんだ。社長に決裁をかけなければちょっとした出費もできないっていう、会社の規定が馬鹿馬鹿しくてね。最早数十億円以上の売上をあげる会社で、しかもその中核は俺が築いたものと言っても過言じゃないのに、わずかな額のために毎回決裁をかけるくらいなら、辞めて自分で起業した方が利益は上がるし早いよね。俺はこのライフスタイルを日本に広めるのが使命と思っていた。でもこのままこの会社のお伺いを立てていたら広まらない。俺には俺なりの大義があったんだ。

今でも覚えてるんだけど、オーナーは絵に描いたように椅子から転げ落ちたよ。だって俺は当時会社の常務でスーパースターだったから。でもオーナーからしたら、別に利益を上げたいと思ってないんだよね。まあこのままの調子でやっていけたらいいんだけど、俺はそれじゃ嫌なんだよ。だから俺は言ってやった。「こんな新しい事業初めてでしょ。なのに一々お伺い立てていたら、この事業はだめになります。屋上緑化を広めるのは俺のライフワークだから、このままお伺い立て続けるくらいなら俺は辞めます」と。

で、慌てて慰留するオーナーに、俺はこう答えた。「まず決裁を俺の自由にさせてください。また、年収は俺のあげた営業利益の10%をください。自分で起業したら俺は億万長者になるわけだから」と。

そしたらまさかオーナーは条件を飲むって言うからさ。俺は会社を辞める気満々だったから条件をつけたんだけど、意外にもオーナーはその条件を飲んでまで俺に会社に留まってほしいと。飲むと言われても辞めるなら、俺がただ一人で儲けたいだけじゃないかということになるからさ。俺山口県出身でお人よしだから、オーナーを信じちゃったんだよね。それで俺は会社に残ることにして、年収はそれまで1,000万だったのが、4000万になった。

岩佐)株ももらったの?

岡崎)多少ね。役員はこれから辞めるから、10年後には増やそうという口約束をして貰ったんだ。

岩佐)オーナーに条件を飲んでもらって、会社は富夢ちゃんの立て直した2つの事業のおかげで絶好調だったんだよね。そういえば富夢ちゃん、その頃よくメディアにも出てたよね。時代の寵児な感じだったよ。

岡崎)そう、春そのものだったよ。4000万の年収があり、経費も自由に使うことができる。

岩佐)その時どうだった?どんな気持ちだったの?

岡崎)最悪だったね。もう最悪。今だからわかるんだけど、俺は完全に驕っていて、酒と女と金に溺れていた。酒なんてむちゃくちゃ飲んでたし、女なんて日替わりだったね。その頃はそんなんだったけど、誰も覚えてないし今となっては誰とも関係が残ってないんだよ。金も、小銭入れから折りたたんだ1万円が出てくるくらい、無頓着だった。全部代替欲求のはけ口。悪魔に魂を売ってたんだ。その時は分からなかったけど。


GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


岡崎)俺、昔から金持ちになりたかったんだ。俺の親父は中卒でお袋はヤンキーで、めちゃくちゃ貧乏だったんだよね。お袋は金持ちのお嬢さんだったんだけど継母に毎日いじめられていて、ものすごく愛のない家で育ってきた人なんだ。親父は中卒で自動車の整備士をやっていて、金はないけど、俺のおばあちゃんの愛を受けて育った人なんだよね。その二人が結婚して5年後に生まれた一人息子が俺なんだ。俺は、金はないけど本当に愛のある家庭で育った。だから俺は人を信じているし、人が大好きなんだ。両親に愛されて育った。でも金はなかった。小学校の5年くらいの時、夏休みに海外旅行行ってる奴いるやん。めっちゃ楽しそうやん。ハワイとかさ。そいつより俺は喧嘩も強いし足も速いし勉強もできるの。でもハワイには行けないわけ。なんでかと思ったら、親父のパフォーマンスの違いなわけ。親父のいい笑顔は思い浮かぶけど、ハワイは無理だろうなと。だから、俺が親父たちを連れていけるようになろうと思った。これが一つの原体験。

もう一つが、親父の姉さんの子どもが心臓に穴が開いていて、この子の手術に500万かかると言われていた。親戚中が、金がないから右往左往していた。その時もし俺に金があったら出してやれるのに、と。愛のすばらしさも受け止めてきたけど、金のない惨めさも小学校低学年の時に痛烈に感じたね。

もう一つ決定的だったのが、うちのお袋は親父のことを大好きだったんだ、優しくて。でも親父は中卒だから、いつも会社から帰ってきたら会社の愚痴を言う。自分は現場を知っていて仕事ができるけど、高卒大卒の上司がきて、何も分かっていない彼らに親父は虐げられる。それでお袋に会社の愚痴を言うわけ。小学校4年くらいの時のことを俺は覚えてるんだけど、毎晩晩飯を食いながら、お袋が『お父さん、そんな人はいずれ自業自得でいなくなりますよ。お父さんのおかげで私たちは毎日食べられるんだから、ありがとうね』って親父を立てるわけよ。で朝親父を見送った後ぱっと俺の方を怖い顔で振り返って、『富夢くん。勉強しないとこういう人生になるわよ。人に人生をコントロールされる。私はお父さん大好きだけど、あなたは自分の人生を勝ち取りなさい』と。俺のその小学校時代の原体験が全て今の俺になってるんだ。そこから、自分の力で這い上がるしかないということが身に染みているわけ。そんな俺が30歳に年収1000万、35歳には年収4000万。どこに行くにも付き人が来る。車なんて誰かが運転してくれるから運転したことがない。常務、次期社長とちやほやされる。人間が腐ってくるわけよ。家賃40万のところに住んで、クルーザー持って。1000万くらいの車に乗って。その時俺は魂を売っていたね。

でも、素直にそれを楽しめばいいんだけど、本当は、俺はそんな自分が嫌いなんだよね。自分らしくないんだよ。刹那的で、自己中心的な生活。金があれば何でもできる、みたいなことほんとに言ってたしね。自分の好きじゃない自分になってるから、自分の魂がどんどん崩れていく。崩れるとどうなるかというと、余計に酒、金、女になっていって自分を壊す。俺がどこまでやっても俺についてくるのか、と試したくなる。今思い返すと、最低だったね。


魂を売っていた岡崎富夢


岡崎)それで今でも忘れない、2014年10月31日。前の日に高知の親友の会社との共同事業が決まって意気揚々と羽田で携帯の電源を入れたら、夥しい数の俺の背任行為を指摘するメールが、あのオーナーから届いていたんだ。

岩佐)背任行為って具体的にはなんだったの?

岡崎)女性関係が派手だとか、金遣いの荒さで公私混同しているとか。実際は自腹での支払いがほとんどで、経費を使ったわけでもないし、独身だったから法に触れるようなことは決してしていないんだよ。でも、調子に乗っていた俺は知らずに多くの敵を作っていたんだろうね。完全に青天の霹靂だった。その段階でも、俺は会社経営に対しては全力で取り組んでいたつもりだったよ。毎月全事業部の責任者と会議を行い、既存事業の改善、新規事業の発展のために力を尽くしていた。結局、頭の中はいつも会社のことを考えていた。もう少しで、会社全体をもっと良くできるはずだったんだ。でも、問題はそこじゃなかった。すべての原因は、俺が驕っていたことだったんだ。

本当に、死ぬほどへこんだよ。俺の生まれて来た37年間の意味は何だったのか。このまま落ちぶれてしまうんじゃないか。この俺が、人を信じることができなくなりかけていた。
でも、ある日考えたんだ。これからも俺の人生は続く。この1度きりの人生で何がしたいのか。俺はやっぱり屋上を広めたいと。当然いろんな反対を受けた。でも、俺の意志は強かったね。だって、屋上が大好きだったんだ。そこでようやく立ち直ってマンションと車を引き払って、家財も売り払って、本当に1から身一つで起業したんだ。

岩佐)そんな壮絶な過去があったんだね。で、今は独立して上手く行っていると。

岡崎)前の会社でコアサプライヤーだった会社の社長が、俺が会社を辞めた時すぐ俺のところに来てくれて、「富夢が起業するなら俺についてくる」と言ってくれたんだ。「この売上は君が作ったんだ。君が屋上業界からいなくなることは俺らにとっても大きな損失だ。君が起業するなら俺はついていく」と言ってくれたことも、俺の起業の後押しとなったんだ。今は家具も床材もフレームも、全部その一社が作っている。大量に海外で作らせて大量に在庫を仕入れて、俺らには一個単位で売ってくれる。在庫もしてくれる。それも3年で数十億売ったという化け物のような実績があったからやってくれるんだ。

岩佐)富夢ちゃんは獰猛なライオンだね。獰猛で、自由なライオン。

岡崎)そう、俺は飼いたくないし飼われたくない。自由にしがらみなく、やりたいことを全力でやりたい。俺は今決裁とかを捨ててるの。自分の自由を奪われたくないから、誰の自由も奪いたくない。誰にも雇われたくないし誰も雇いたくないのが本音。お互いに得意な分野も苦手な分野もあるけど、それを否定もしないしお互い認め合っている。全員が個として立ってうまくいく社会って絶対にあるのよ。

人間の生活をベンリにするのが『文明』だとしたら、人間の生活を豊かにするのが『文化』だという。屋上はまさしく後者だ。俺は屋上で人間を豊かにしたい。俺は日本で一番屋上が好きな男なんだ。

(おわり)


GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


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岡崎富夢
1977年1月23日、山口県出身。株式会社PASIO代表取締役。日本に「ラグジュアリーテラス」を広め生活を豊かにしたいとの思いから、株式会社PASIOを創業し「COLORS」という屋上テラスの開発・販売・施工を行う。

日本でいちばん屋上を愛する男-岡崎富夢の物語<中編>

屋上リビングを一気に庶民に手が届く価格にした男、株式会社PASIO代表 岡崎富夢の物語。豪快な半生を語ってもらいました。

[写真]GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


<前編はこちら>

岩佐)独立する前にいた会社では、どんな仕事をしていたの?

岡崎)住宅の断熱材やビルの屋上緑化をする建築会社に勤めていたんだ。当時は会社全体としては数十億の売上で数%の利益だったんだけど、3つ事業があるうちの2つは赤字だった。それを俺は、23歳の時にプロの経営者を志して、数年後MBAの大学院に通いながら会社では営業所の所長になって、東京の営業所を5倍くらいの業績にしたんだ。

その会社では、建物の断熱材事業と、ビルの屋上緑化事業が赤字でさ。屋上緑化事業は、今俺がラグジュアリーテラスとしてやっているような家具つきのテラスではなくて、屋上緑化用資材を売る事業ね。ピーク時にはかなりの利益を出していたんだけど、俺が入ったころには赤字になってた。俺は27歳の時、数十人の部下を率いて事業部長に就任して、立て直しを命じられた。MBA2年目の頃だね。

岩佐)ビジネススクールに行ってもそれを会社で活かせなくて悩んでいる人がすごく多いけど、富夢ちゃんはダイレクトに効いたんだね、学びが。

岡崎)当時の俺はMBAで経営戦略とか論理思考とかを学んでいるくらいだったけど、俺アホだから、「いける」と思ったんだよね。これだけフレームワーク覚えたから立て直せると。で、飛び込んだんだよ。そしたらさ、その事業はもうグダグダ。赤字になるときってその時だけでなくて数年前から腐敗が進んでいる。腐敗が進んで、どうしようもなくなって赤字になるわけ。当時の「4悪」というのを今も覚えてるんだけど、まず、社員のモチベーションが下がっている。みんな辞めたいとか部署異動したいとか言ってるんだよね。それから、競合相手が同じものを自社の原価よりも安い単価で販売していること。競争戦略がなんもなってないわけ。3つ目が、現状を打開する手段を全く打てていないこと。起死回生となるような製品が仕込まれているわけでもない。そして4つ目は営業強化の策しか打ってなかったってことなんだけど、要はその時の上の人たちが、景気が上り調子の時の営業マンたちだから、たくさん営業に回った、それでたくさん利益が上がった、という人たちなんだ。その人たちからすると、『今利益が上がらないのは、営業が足りないから』なんだよね。

岩佐)ただの根性論なわけだ。

岡崎)当時会社で打っていた手が、なんと生命保険の販売で日本一の売り手だったという女性がコンサルに入って、「営業先で手紙を置いてきなさい」という、営業面の局地的な対策だけだったんだよね。そんな部署に事業部長として入っていって事業課題を分析したときに、その4悪を一網打尽にする手があることに気付いたんだ。それは製品開発力の強化という非常にシンプルな手段だったんだよ。

明らかに自社の製品が競合先の製品に負けてるんだ。カタログの性能は全く一緒なんだけど、価格は競合の方が3割も安い。でもその事業を率いてきた人たちに聞くと、競合のカタログ表記は嘘だという。でも、嘘と言っても根拠はないわけ。お客さんはそれを良いと思って買っているわけだよね。だから、嘘の根拠を出せと俺が言ったら、『それは3年使ってみたら初めてわかるんだ』と伝説みたいになっていて。根本の原因は、チャネルはある、ブランドはある、でも製品が弱いということ。製品がなぜ弱いかというと、競合の製品よりも強い製品を作るリソースがないんだよね。だってうちの会社に製品開発部隊がなかったんだから。なぜかというと、以前は天才的な社員が、営業マンをしながら自分で製品を作っていたわけ。だから、『お前らも営業をしながら製品を作れ』というのが会社の方針で、営業強化という指示以外の対策がない。

岩佐)完全に旧日本軍状態だね。玉が入っていない銃剣で突撃させられてたんだ。

岡崎)今でも社長室で繰り広げたバトルを忘れないね。製品開発部隊を作り人と資金を送り込んでほしい、そうすれば俺が全て立て直す、と常務に提言したんだ。製品開発部隊を作らないのなら再建の事業部長を下りると主張し、常務と平行線を辿る一方の俺を見兼ねて、オーナーが「わかった、ここで頓挫するくらいなら、岡崎に任せてみよう」と許可を出した。そこから俺は矢継ぎ早に5つの製品を考案し、今でも残っているメガヒット商品となったよ。そのおかげで売り上げが回復して事業を持ち直すことができたんだ。


[写真]PASIO代表 岡崎富夢


岩佐)とんとん拍子だね。大変じゃなかった?

岡崎)いや、相当苦しかったよ。製品開発ってさ、俺らの業界では製品を出すまでにだいたい1年半かかるわけ。つまり1年半かけて製品を出し、市場に浸透して売り上げが上がるまでに最低2年はかかる。その成果が上がるまでの俺への批判や悪口は本当にすごかった。まあそれもそうだね。たった27歳の俺が事業部長として、数十人の部下の上に立つ。そこに長くいた人間からすると、お前にこの業界の何が分かるんだ、となるよね。俺は役員会とかで必死にプレゼンしてるんだよ、ここがこういう問題でこうすべきだと。経験豊富な人に俺のプランに従ってもらうためには、結局ファクトとロジックしかないんだ。でも俺はこんなに必死なのに、他のやつらは毎晩俺の悪口をつまみに酒を飲んでる、という話が自然と入ってくる。この一年で俺は相当老け込んだね。

MBAに行ったから今の俺がある。ファクトとロジックを信じてるから、どんな批判にも負けなかった。本当にMBAには感謝してる。でも辛かったよ。俺はこんなに会社のことを思ってやってるのに、この船が沈んだらあいつらの生活もなくなるのに、何で夜な夜な居酒屋で俺の悪口言ってるのか、と。一番辛かった時やね。でも俺は起業する勇気もなかった。

でもあの3年で得られたものは大きかった。あの時も、今回の起業にしてもそうなんだけど、結果は数字。売上が上がるまでの間にすごい反響はある、だけどなかなか物が売れないという時期は必ずあるけど、その間に耐えるということを俺はあの3年で学んだよ。お客さんの反応が良くて俺も買いたいと思う商品は、粛々とちゃんと広めていけば、売上が上がるまでに時間はかかってもじっと耐えればよい。その度胸は3年間ぼこぼこに叩かれたときに身についたね。

そして、お前なんかが事業部長だなんて認めないと言われながらも、結果が出ると全て変わるんだ。数字が出たら、大スター。みんな『俺を信じてた』、とか言うわけ。そう思っていても、思っていなくても、みんな言う。それがサラリーマンの世界だよ。

でその数か月後、もう1つの部署の事業立て直しの話が舞い込んできたんだ。

岩佐)富夢ちゃんはそれを引き受けたの?あれほど大変な経験をしたうえで絶大な成果を残したんだから、もう引き受けないという選択もできたよね。

岡崎)引き受けたよ、もちろん。だって俺が目指してるのは、出世して勝ち抜けすることではなくて、プロの経営者として常に最悪のところに乗り込んでいって結果を出す人生だから。迷うことなく行ったね。だから俺がいつも思うのは、目指しているものは何なのか。目先の出世なのか、何なのか。俺は目指しているものはプロの経営者だ。どんな厳しい状況でも単身乗り込んでいって、ファクトとロジックと、敵だった人間を全部味方につけて、再建していくというのが俺の目指している道だ。だからそっちの道に行った時、一番俺の悪口を言っていた人たちが驚きながらも俺についてくると言ってくれて、一丸となってその事業も再建した。その過程で見つけたのが今のビジネスの原型なんだよ。


赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて 夜風に吹かれて食事も酒も進む


岡崎)次の再建の事業は、ビルの断熱事業だった。当時はビルとマンションの断熱が主だったんだけど、木造の戸建てにも断熱の技術を応用できるようになって、木造の戸建ての断熱事業に進出したところだったんだ。その際とある営業マンが「おたくはビルの屋上庭園をやってるよね。これ同じようなことを、一戸建ての家にも応用できないか」という顧客の声を拾ってきてさ。

この時の会議は、今でも伝説の会議として語り継がれてるよ。その時俺は屋上緑化の事業部長も兼務してたから、そのビジネス化を思いついたんだ。当時大手の住宅会社が、500万円で屋上に芝生と樹木を植えて屋上庭園を造っているということを俺は知っていたから、その営業マンが「部長、こういうニーズがあるんですけどどうしましょうか」と聞いてきた時、「500万くらいかかるけどそれでもやるなら引き受けると返せ」って言ったんだよね。後日どうなったか聞いたら、「住宅ローンがあって屋根と比べたら非常に高価になるのでできないと言われた」と言う。その時、俺がもしめちゃめちゃ儲かってたらその声は無視だと思うの。でもリーマンショックの影響で会社の状況も良くなかったから、何か成長の種を見つけなきゃいけないと思っていたところだった。本当にグッドクエスチョンだったと思うんだけど、その営業マンに「屋根っていくらすんの?」と聞いたら、「100万です」と言うわけ。それなら、100万だったら屋根が屋上に切り替わるんだなということに気付いた。今は業界では500万で売られている屋上は、100万だったら買うというお客様がいる。

その時俺は黙り込んだよ。3分間も黙った。

岩佐)この饒舌な男が、3分も黙ったと。(笑)

岡崎)俺は無心にノートに試算しだしてさ、あの材料とあの材料を使って、いくらになる、と。

お客さんが屋根と同じ値段だったら買うと聞き出せた。100万だったら買うという。これはいけると踏んで、やるとその場で決めたんだ。あらゆる事業部から金引っ張ってきて、これを100万で売るぞと。期限は2か月だ。GO!!と。

2か月後、何とか原価を合わせることができた。それで発売をかけたところ、1年目、2年目、3年目と売り上げが倍増し、飛ぶように売れた。年に約数千棟売れるようになった。

岩佐)屋上が100万って、激安だね!俺も昔戸建を建てようとしたときに見積もり取ったけど、随分小さい屋上でも200万くらいかかるって言われたよ・・・。どうやってそこまで原価を下げたの?

岡崎)家具などのサプライヤーを絞り込んだんだ。今までは例えばタイルだったら、4社で各3種類ずつ、計12種類から選ぶというオーダーメイドの世界だった。でも俺は絞り込んだんだ。100万で売るにはタイルはこれくらいじゃなきゃいけないと決めて、主要サプライヤーの社長のところに行って、「これから俺は屋根を屋上にします、将来これぐらいあなたの製品を売ります。今はまだ売上ゼロだけど、将来これぐらい売った時の単価を今出してください」と、直接プレゼンをしてもらった。そしたらある会社の社長が、「岡崎さんの夢に乗った」と、どんと値下げしてくれたんだ。それを俺は繰り返した。

当時の屋上緑化のすべてのアイテムに対して、全社にプレゼンしてもらったよ。床材、家具、防水、白い砂利、芝の植物のメーカー、土のメーカー・・。

そうして屋上緑化事業の立て直しに成功して、数年後には会社の常務にまで登り詰めたんだけど、まだ俺はこの時には、とんでもない将来が待ち受けているとは予想もしていなかったんだ。まさか、地獄の底まで落っこちることになるとは夢にも思わなかった・・・

<後編に続く>


赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて BBQを行う


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岡崎富夢
1977年1月23日、山口県出身。株式会社PASIO代表取締役。日本に「ラグジュアリーテラス」を広め生活を豊かにしたいとの思いから、株式会社PASIOを創業し「COLORS」という屋上テラスの開発・販売・施工を行う。

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プロフィール

岩佐大輝

Author:岩佐大輝

1977年、宮城県山元町生まれ。株式会社GRA代表取締役CEO。日本、インドで6つの法人のトップを務める起業家。 詳細はこちら≫

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