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そして、生活するように旅をしよう!企業経営11年目、岩佐大輝の記録。

シチリア人のレナータさんが岩手県遠野市に移住する理由 <後編>

左:GRA代表岩佐、右:レナータさん 夕暮れ時のシラクサにて


岩手県の遠野へ移住することになったシチリア人のレナータさん。彼女の話を聞くほど、こんなにも素晴らしい人が好きになってくれた東北を僕は誇りに思う。そんな彼女がNext Commons Labを通して実現したい社会、そして彼女の根底にある思いを深く探ってみた。【後編】

<前編はこちら>

岩佐)Next Commons Labでは、「ポスト資本主義」の社会を作りたいと言っていましたね。これは、どのような社会をイメージした言葉ですか?

レナータ)「ポスト資本主義」というとコミュニストと思われる人も多いかもしれませんが、そうではありません。資本主義や共産主義を否定するわけではなく、それぞれの良いところを繋いで、地域に眠る資源を生かしながら、更に豊かな社会を作りたいんです。

私たちは言葉をすごく大事にしています。「消費者」と「生産者」、そして「コミュニティ」はこのプロジェクトの重要なポイントだと思っています。「生産者」や「消費者」は資本主義の言葉ですが、ただ消費されるために生産者がいるわけではないですよね。次の社会では「楽しんで作る人」と「楽しんで食べる人」の関係です。それなら「消費者」は「コンシューマー」ではなく、「楽しんで食べる人」というような意味の言葉を作るべきです。日本には漢字がありとても言葉が柔軟なので、英語から派生するような最近外から入ってきた言葉ではなく、自分の国の言葉のコンビネーションを使って新しい言葉を作り出すべきだと思っています。「ポスト資本主義」という言葉でなくても良いのですが、そういった形で、お金だけではなくその地域の価値を大切にするような社会、という言葉があると良いです。

私自身は「ポスト資本主義」を「ポストグロース」だと考えています。資本主義に完全に反対するわけでなく、成長した後に何をするのか、を新しい社会は求めています。だから新しい社会を作るにあたって強いメッセージとなる新しい言葉を作るべきだと思うんです。やらなければいけないことをやり終えた後は、やりたいことをやりたい。「ポストグロース」は成熟とも違う。成長の次の社会で人はどう幸せになるか、ということを考えています。

岩佐)言葉を作る。とても面白い考えですね。僕も言葉作りが大好きです。「甘酸っぱい」社会とかどうですか?甘酸っぱいについては、まで書いちゃったくらいです。(笑)

レナータ)「甘酸っぱい」はいいですね。人と人が繋がる力を愛というのであれば、「愛」という言葉でもいい。日本人は「愛」という言葉を恥ずかしがりますが、それなら「エネルギー」という言葉に置き換えてもいい。どうポスト資本主義が愛やエネルギーに繋がるかはまだ思索中ですが、愛を持って違う形のものと一緒に頑張れる社会ができたらいい。今までの資本主義ではcompetition、つまり競争がいいものとされていたと思います。でもcompetitionの語源はラテン語から来ていますが、「com」は「一緒に」、「pathos」は「苦しみ」という意味です。同じ苦しみを共有して一緒に頑張ろう、という語源なのに、いつの間にか意味が単なる「競争」、「敵対」になってしまっています。


[写真]ローマ時代のコロッセオがあり、シラクサは町中が世界遺産


岩佐)それはすごく面白い。GRAは新規就農者を育てていて、「将来ライバルになるかもしれない人を育てる事業をしているんですか?」とよく聞かれるんですが、僕は、ライバルが増えたとしても農業全体が盛り上がったらそれでいいと思っている。まさに「co-creation(=共創)」という考えを僕らはとても大事にしています。日本語にも「競争」と「共創」、同じ発音で両方の意味があるから、competition と一緒ですね。レナータさんの言う「ポスト資本主義」は「共創社会」ということなんでしょうね。誰かだけが一人で勝つのではなくて一緒に協力するということ。「集団出世主義」という言葉が僕はすごく好きです。自分だけ上手くいくよりも、みんなで上手くいく方が結果は良くなります。それと「共創」という概念は共通すると思う。これからは資本だけを持っている人が一人で勝つために頑張るよりも、みんなでco-creationできる人の方が、絶対上手くいくと思う。仮にその結果を一人一人の富に換算したとしても、富以外の価値に換算してもね。

レナータさんは何に影響されて、ポスト資本主義や新しい価値観というものを考えるようになったんですか?


レナータ)人生のプロセスの中でだんだんとそう思うようになりましたが、特にロンドンで働いていた体験は大きいかもしれません。家が買えずにおばあちゃんとシェアハウスする生活、友達はみんな出ていく町。お金がないと何もできないなんて、変だと思いました。また通勤電車の人の顔を見ると、みんな顔が死んでいます。仕事に行くのがつまらなそうなのに、お金を稼ぐために働く人が多い。銀行時代、プレッシャーはありましたが、それでも私は仕事が好きでいつも元気に会社へ行っていました。でも多くの人は同じようなスーツを着て、悲しそうな顔で会社へ行き、みんな月曜日を嫌がり、金曜日を喜ぶ。苦しんで仕事をして週末にだけお金を使う。私は月曜日から日曜日まで毎日楽しかったので、みんな何のために生きているんだろうと思っていました。

また、ロンドンで修士課程が終わる頃、トップの成績の人たちはみんな金融機関に入りたがり、みんなマーケットのことだけに集中していました。でもスペインへ行ったら、誰もFinancial Timesを読んでないし、スーツも着てない。お金のために働くのはおかしいんじゃないかとますます思うようになりましたね。銀行時代、市況に合わせて顧客からマージンを取る仕事をしていましたが、私はお客さんが好きなのに、なぜ銀行のためにお客さんに黙って高いマージンを取らなければいけないのかと、悩んだことも大きかったです。

私は最終的にはお金がいらない社会を作りたい。ITの進歩のおかげでそれが可能になると思っています。物々交換から貨幣社会と、「exchange」の精神のもとに人間は生きてきましたが、そうでなく「give」の精神になればいいなと。

岩佐)お金の重要性が減ることについては僕も賛成です。時に金はとっても窮屈な道具になりますから。でも仮に、自分の信義に反するものでなければ、資本主義や貨幣経済もいいものだと思いますか?

レナータ)トリオドス銀行の講演で面白い話を聞いたことがあります。お金は経済における血液と言われますが、現代の社会は病気になっていて、血液(=お金)の巡りが悪くなり、癌のように一部の場所に、血液(=お金)が溜まっています。だから、お金を社会全体に適切に巡らすためにethic bankが必要なんです、というスピーチでした。

でも更に私が思うのは、今ITがすごく発展していますよね。昔は「Dependent society」、次に「Consumer society」、今は「Creative society」と来ていますが、次に来るのは「Strategic Society」だと思うんです。自分自身の知恵や魅力自体の価値をお互いに評価してもらえるような社会、そんな社会がITのおかげでできると思います。「支倉2.0プログラム」というプロジェクトをやっていた時私はお金を貰っていませんでしたが、それでもプロジェクトを行うことができたのは、市などが協力してくれたからです。プロジェクトを手伝ってくれた学生にも私はお金を払ってないけど、私と働くおかげで新しいメンタリティや人との繋がりが得られたことは、彼らにとってお金に換えられない経験になったと思います。今の社会の問題は、お金がないと何もできないということ。もちろんお金はすごく大事ですが、昔は社会の中でお金はツールだったのに、今はお金が中心になってしまっている。では、どうすればお金の重要さを減らしていき、新しい価値が認められるようになるかを考えなければいけません。


[写真]左:レナータさん、右:岩佐 活気のある広場は南国の開放感を感じさせる


岩佐)そんな社会を作る方法が、「ポスト資本主義」の価値観を作ることであり、新しい言葉でそれを表現することなんですね。レナータさんの社会を変えたいというモチベーションの根底にあるのは、先ほど言っていた「愛」なんでしょうか?

レナータ)もしかしたら方法は途中で変わっていくかもしれませんが、そういう社会を作りたいという、根底にある思いは変わりません。目的地まで行きたいと思ったら、真っ直ぐ行くのが早い。でも真っ直ぐ行くことができなかったら方法は変えてもいい。今はお金と愛と言葉について考えることが、価値観を作る大事なポイントだと思っています。でもそれだけで変わらなかったら他の手段を考えます。みんなが社会起業家になればいいと思うけど、そうはなれないから、例えば大企業のメンタリティを少しずつ変えていくとか、働きながらソーシャルセクターに関わるとかでもいい。

愛については、地球も生物も植物も人間ももともとは同じものなのに、人間が勝手に違うものとして区別して考えているだけですよね。そうしていがみ合うのはおかしい。私は新しい人と出会うのは偶然ではなく必然だと考えています。だから、誰かに出会ったらその人に何かお返ししないといけないと感じています。

震災の時、お金があっても食べ物がないと意味がないし、また、周りに自然はたくさんあるけれど、エネルギーが切れたら何もできないということを感じました。そしてその状況で、人との繋がりが生きることを助けてくれるということも。だから私も、人との繋がりを大切にして、出会った人へのお返しをしていきたいと考えています。そして語弊があるかもしれませんが、津波も必然で、何か起きた理由があると思っています。津波の後、家や畑が何もなくなってしまったけれど、とても海がきれいでした。

岩佐)確かに、理由はあると思います。もしかしたら津波はrecreation(=再創造)の機会だったのかもしれない。そして残念ながら人間はrecreationとして受け入れなかったから、無駄な防潮堤ができてしまったのかもしれない。震災後の最初の2年くらいは僕らも生きることに本当に必死で、誰も争う余裕もお金のことを考える余裕もなかった。でも5年経つと少しずつ変わっていって、今はいがみ合いなどが起きるようになってきているのも事実です。残念ながら、最近の東北で起きていることは、ポスト震災の醜い権力争いですよ。

レナータさんはバルセロナにいた頃から支倉2.0プログラムで日本のことを欧州に紹介したりと、大きく日本に関わってくれていたわけですが、敢えて遠野に住むと決断した一番の理由は、レナータさんの実現したい社会をこのNext Commons Labに日本の中から関わることで、実現できると思ったからですよね。今回3人の子供たちも一緒に遠野に住むと思いますが、子供達に日本への移住の話をした時にはリアクションはどうでした?



[写真]地中海を眺めるレナータさんと娘 シチリア人は泳ぎがとても上手だ


レナータ)15歳の長男はとても頭が良いので、楽なライフスタイルを送ることを嫌だと思っていました。今いるバルセロナは安全で安心でとてもいい社会ですが、世界は本当はこうではないと考えています。もっと色々なことにチャレンジしたいので日本に住みたいと、すぐに言ってくれました。

今年中学一年生の長女は気が強く、自分とペットの犬のピンパのことを中心に考えていたため最初は、どこへ行くか、何をするかさえ聞かずに、頑なに行きたくないと言われました。もう中学生なので自由に決めていいよ、でもピンパは一緒に日本へ行くよと言ったところ、ピンパが大好きな彼女も日本へ行くと。最近はやっと遠野のことを教えてほしいと聞いてくるようになりました。

次女は、みんな行くよと言ったら、すぐに一緒に行くと言ってくれましたね。多分まだ日本のイメージはついてないと思います。

岩佐)早く子供たちが日本に慣れるといいですね。子供を連れて知らない土地に入るというのは相当なチャレンジだと思いますが、僕も最大限サポートします。日本に行くにあたって一番の心配はやはり子供が日本に馴染めるかどうか、でしょうか?僕もそうでしたが、東北の中学生はシャイですよ(笑)

レナータ)そうですね。子供たちはオープンマインドだと思います。それでも自分にとっても子供にとっても最もチャレンジだと思うのは、どう地元の人に受け入れてもらうか、そして自分が仕事と家庭をどう両立するか、ということですね。応援してくれる人がたくさんいて、子供たちもついてきてくれるのに、上手く遠野に受け入れられなかったら、というのが一番怖い。遠野の人を使って私たちがやりたいことを勝手にやる、のではなく、一緒に協力しながらやる、というマインドでやりたいです。遠野を助けるために行くのではなく、縁があって遠野でやりたいと。私たちは、遠野が面白い素敵な町だと思ったから行きたいんです。

確かに子供を連れて、新しい土地で、そして長時間働く日本の組織で仕事をするのはチャレンジです。でも、ワーカホリックなことが日本人のアイデンティティだと思っている人が多いですが、私は違うと思います。同じ人間なので集中力は5時間くらいでなくなります。ちゃんと休憩取らないとcreationもinnovationもできない。

新しい価値観が社会に浸透することがとても重要で、働く時間が長ければいいと日本人は考える人が多いですが、例えば北欧は残業する人少なく、家族の時間を大事にする社会です。同じようなシステムが日本でできないはずはない。

岩佐)確かに、今回僕もシチリアで普段と違うゆったりとした時の流れの中で過ごしたせいか、普段はしない意思決定をしました。シチリアから日本に電話して、投資していた株や不動産を全部売ることにしちゃいましたよ(笑)。何を大事にするか、という価値観は、先ほどの「ポスト資本主義」で実現したい社会にも大きく関係がありますね。最後に、震災後日本に住んで日本でそんな社会を実現したいと強く思ってくれたのは、日本の何がレナータさんの琴線に触れたからなんでしょうか。

レナータ)実は震災が起こるまで、私はボランティアをやったことがありませんでした。でも縁あって、友達がいたので東北へ行ったとき、何かを変えたいと思いました。最初は助けたいと思ったけれど、岩佐さんをはじめ素晴らしい社会起業家の人たちと出会って、助けは必要なく、それよりも一緒に何かをやりたいなと。言葉には表せませんが、あの光景を見て何かが自分の中でキックしたのは間違いないです。そして縁があって、遠野という素晴らしい町とNext Commons Labという素晴らしい団体に出会えたのです。これから色々なチャレンジが待ち構えているとは思いますが、多くの人と一緒にプロジェクトができることを心から楽しみにしています。


Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。イタリア、シチリア島生まれ、ヴェネツィア大学日本語学科卒業、早稲田大学政治経済学部客員研究員、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)卒業。全日空、東京三菱銀行(ロンドン)を経て、スペイン外務省直轄外交機関Casa Asia(Asia House)に10年間プロジェクト・コーディネーターとして勤務。以後日本ならびにアジア各国関連の講演会、展示会、セミナーなど経済・文化交流活動に従事。3.11以降、東北地方に何度も渡り長期間滞在し、強固なネットワークを築く。震災のあと東北に生み出したイノベーションを海外に紹介して、東北と欧州ビジネス交流を推進のため2013年「NPO法人支倉プログラム」を設立。

シチリア人のレナータさんが岩手県遠野市に移住する理由 <前編>

[写真]左:GRA代表岩佐、右:レナータさん。シチリア島シラクサにて


Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。スペイン・バルセロナ在住のシチリア人で、僕のもっとも尊敬する人物の一人だ。4年前に彼女が立ち上げた「Hasekura 2.0 Program (支倉2.0プログラム)」は日本とヨーロッパの架け橋となり、多くのイノベーションを生み出してきた。そのレナータさんが子供を3人連れて、岩手県の遠野への移住を決意した。【前編】

岩佐)もうすぐレナータさんが日本へ来るのをすごく楽しみにしています。僕はレナータさんに4年前に出会って以来色々な仕事を一緒にしてきましたが、今回は、どうしてこんなにすごい人が様々なチャレンジが待ち構えている日本に住むことにしたんだろう、とその理由を知りたく、そのためにはレナータさんのルーツを知らなくてはと、ここシチリアのシラクサまで来ました。まず、日本ではどんなプロジェクトをやる予定なのか聞かせてください。

レナータ)「Next Commons Lab」というプロジェクトをやるために、岩手県遠野市という人口3万人くらいの町に9月から住むことにしました。Next Commons Labは林篤志さんという人が設立した、日本の地方から「ポスト資本主義社会」を作りましょう、というプロジェクトです。国や市、大企業などと一緒に、地域に眠っている価値や資源を再発見して、これからの社会を資本主義以外の観点からも更に豊かにしていくことを目的としています。

Next Commons Labが遠野市や地元の人と協力しながら新しいプロジェクトを決めて、そのプロジェクトを実現したい起業家に来てもらい、3年間スタートアップのための資金を出す。資金源は総務省の地域おこし協力隊と、遠野市、そしてイノベーションを起こしたいと考える大企業です。先日、都会に住んでいる起業家を募集したところ200人以上の応募があり、そのうち15人ほどが遠野に移住してプロジェクトをすることになりました。Next Commons Labはプロジェクトの運営や起業家のサポートなど、新しいプロジェクトのコーディネーションをします。

例えば、遠野市はビールの原料のホップの名産地なのでクラフトビールのツーリズムを行ったり、濁酒の酒造特区を作り、ローカルパートナーや大企業と一緒に濁酒を世界に発信していったりします。また、できる限り地元の人を巻き込んで一緒にやりたいので、「市民大学」という地元の人と外部の人が相互に教えあうような場のコーディネートや、新しく遠野に住みたい人と遠野の空き家のマッチングをする不動産プロジェクトも行います。

行政、ローカルパートナー、大企業、と様々なセクターとの連携を私たちがコーディネーションすることで、行政にとっては町の活性化を、そしてローカルパートナーは外部の人材や資源を使って地元の事業を大きくすることができます。また大企業も資金や社員を送って協力してくれる予定ですが、例えば濁酒の発酵過程で出る菌を研究し新しいサプリメントの開発に生かすロート製薬のように、企業にとってもイノベーションの種を探ることができるんです。他にもキリンやGoogleなども協力してくれる予定です。

岩佐)今までもレナータさんは、拠点のあるバルセロナから何度も日本に来てくれていますが、今回日本に移住を決意した理由はなんでしょうか。そのプロジェクトにレナータさんが関わる理由は、遠野市からグローバルな課題解決に繋げたいからですか?

レナータ)一番の理由は、林さんのビジョンが私のビジョンに近かったからです。震災後のこの4年間はずっと東北を回り何人もの社会起業家に出会って、私もスペインからではなく日本の中から関わりたいと思うようになりました。実際に中に入らないと、遠野でこういうことをやりたい、遠野はすごくいい町だ、とどんなに言っても説得力はないでしょう。また、海外の視点や国際間のネットワークも重要なので、外国人の私がNext Commons Labのメンバーとして入ることで、必ず役に立てることがあると思っています。今決定している10個のプロジェクトの他にも、私は海外との繋がりを作りたい。遠野の国際化、遠野に来た外国人のツーリズムをやりたいし、遠野のプロジェクトをソーシャルビジネスに興味ある世界中の人に紹介したいです。

今回パイロットプロジェクトとして遠野市からスタートしますが、段階的に全国で展開していく予定です。幸いなことに、とても多くの人たちがこのプロジェクトに興味を持ってくれています。


[写真]常にアクティブなレナータさん。


岩佐)今回遠野に何百人も応募したってすごい。遠野に移住するわけですよね。それだけ地方に住みたい人が多いんですね。レナータさんや林さんのようなすごい方がいらっしゃる遠野が羨ましいです。なかなかこんなにすごい人たちが集まる地域はないと思う。その一方で、今回パイロットプロジェクトをやるにあたってのチャレンジ(難所)は何でしょうか?

レナータ)二つあります。一つは、予算ももちろんですが、人材が足りない。一回に10個以上のプロジェクトが同時に行われるので、少ない人数で全てのコーディネーションをするのはとてもチャレンジです。いずれ他の町でもプロジェクトが始まる予定ですが、現在5人しかいないので人をどうするか、が課題ですね。

また、2011年に初めて遠野に行きましたが、町はとてもきれいだし、自治体がこういうプロジェクトを受け入れるというオープンさがすごいと思います。何年以上も前から務めている市長がこういうオープンさを持つというのはとても素晴らしい。そんな町なので何としてでもこのプロジェクトを成功させたいわけなのですが、最もチャレンジになると思うのは、突然外から新しく入ってくる人に対して地元の人がどう思うのか、ということです。一番大事なポイントは、できるかぎり町の人に受け入れてもらえるように、私たちがやりたいことをちゃんと伝えることだと思っています。

岩佐)地域の中で新しいことや変わったことをやろうとすると、必ずそれに反対する人がいる。僕はこの5年間、新しいことに挑戦しながらも、道半ばで守旧派のプレッシャーに耐えかねて地方を去った人を数多く見てきたのですが、今回のプログラムは大丈夫でしょうか?

レナータ)どの国にもどの地域にも必ずそういう人はいますね。それは仕方ないことですが、私たちのプロジェクトは一緒にやってくれる素晴らしいローカルパートナーがいて、行政も協力してくれるとてもいいシステムができあがっています。私たちも、イベントや人の集まる「Food Hub」というカフェや「市民大学」、またコーワーキングスペースを作るなどして、新しい人が来て勝手に町を作るのではなくて、地元の人に来てもらって巻き込んでいき、地元の人と一緒に作るように心がけています。Next Commons Labの設立者である林さんや、東京出身で遠野に移住してきた人、遠野の老舗のお店の方など多くの人が協力的で、外部と遠野の中の人との繋ぎ役になってくれています。

岩佐)地域をうまく巻き込んでいるんですね。地元の行政とそこで力を持っているローカルパートナーに加えて、大企業まで巻き込んでいるこのプロジェクト。成功すればあらゆる地方に変革をもたらすすごいモデルになりそうですね。

次にレナータさん自身のことについて聞いてみたいです。僕は今回初めてシチリア島に来て、海はとてもきれいで人もとても大らかな素敵な町が多いですが、日本の田舎と通じるところもあるように感じました。保守的で少し寂しげな雰囲気もある。レナータさんはこのシチリア島のシラクサで生まれ育ったんですよね。この町はどのような町でしたか?


レナータ)1969年にシラクサで生まれて、途中でアメリカやイギリスに留学をしていた時期もありますが、18歳までは基本的にシラクサで暮らしていました。雰囲気は普通の田舎町で、東北に似ている部分も多いように思います。

シラクサはBC750年頃にギリシャのコリントスの植民者が作った町で、ギリシャ時代はアテネよりも栄えていました。古くから漁業と、レモン、アーモンド、オリーブなどの農業が盛んな肥沃な町でした。シチリアはずっと色々な国の植民地として支配されていた歴史を持っています。ローマ、アラブ人、ノルマン人、スペインのカタラン人などで、特に7世紀頃支配していたアラブ人の影響は未だに強く残っています。

民族はイタリア本土と一緒ですが、メンタリティや考え方はイタリア本土とはかなり違うように感じます。島国だし、植民地支配の後もマフィアが牛耳っていて、常に誰かに支配されていた歴史のためでしょう。戦時中にアメリカ軍をシチリアからイタリアに入れるように裏で手立てをしたのは、アメリカにいたシチリア系マフィアでした。マフィアの権力はいまだに根強く残っていますし、シチリアのリソースを搾取してここの経済を動かしてきたのは北イタリアの大企業です。

つまり、シチリアでは自由に何かをコントロールするという制度や風習がありません。シチリアは多くの資源があるのでそこまで貧しくはない島ですが、どういう風にここを開発するかは全て北イタリアやマフィアが決めていたので、私たち南イタリアはお金を自分の手で使い、自分の力、自分のイニシアティブで開発することができませんでした。そのためここの人たちの良くない部分は、みんな社会の問題を誰も自分の問題とせず責任を取らないことです。シチリアはメンタリティが問題で、変わりたいと考える人もいますが、歴史的にパワー持っている人が常に主導で社会を作ってきたため、人々は変わりたくても変われないのです。


[写真]シラクサの町から臨む地中海


岩佐)植民地やマフィアの問題は根深いですね。シラクサの近くの町、ノートというところへ行った際にも強く感じました。レナータさんはどうしてそんなシラクサで育ったのに、ここを出る決断をしたのでしょうか。日本との出会いはいつでしたか?

レナータ)シチリアには18歳までいましたが、家族の影響で中高時代にイギリスやアメリカに留学したこともあり、昔から異文化への興味は強かったです。日本との出会いは、ずっとやっていた水泳を怪我で辞めた後、ヴェネツィア大学の日本語学科に入ったことですね。これまで学校で西洋文化や英語、ラテン語、フランス語などの勉強はしていたので、次はあまり知らない東洋について勉強したいと思ったのです。東洋の中でも、1980年頃ちょうど日本はバブル中だったので、なぜこんな小さい国が経済成長をしているのだろうと興味を持ち、加えて「3つのD」 、Distant(=家からヴェネツィアが遠かったこと)、Different(=日本語や日本文化をこちらの人達はほとんど知らないこと)、Difficult(=難しくて大変そうだということ)で、日本について勉強しようと思いました。

大学時代、日本に留学したこともあります。大学2年目を終えた後、3か月間落合シェフのお店「グラナダ」でアルバイトをしながら日本に留学し、卒業後にまた1年間東京に住みました。再び落合シェフのところでアルバイトをしながら、早稲田大学の客員研究員として冷戦後の日本とイタリアの比較政治学を学びました。

私は日本があまりに大好きで日本にいるときの自分は欧州にいるときと全く別人になっていました。その頃から日本に住みたいと思っていたのですが、当時のボーイフレンドは日本に馴染めず、アムステルダムの建築の大学院に入学にすることになりました。そこで私も彼に合わせて欧州に帰ることにし、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)という大学院に入りました。1年間の修士課程は、勉強はとても大変でしたが一番楽しい年でしたね。24歳の頃です。

SOAS卒業後は、ロンドンにて全日空の欧州拠点で働いた後、東京三菱銀行のロンドン現地法人で日系企業担当の仕事をしました。同僚も顧客も日本人の環境で、数字のプレッシャーもありタフな仕事でしたが、上司に恵まれてとても楽しい2年間でした。

でも30歳になる頃、このままで良いのかと悩んでいました。ロンドンはとても国際的な町で面白い友達が多かったですが、みんな次々とイギリス国外へ行ってしまいます。またロンドンは物価が高くて家が買えず、90歳の女性とアパートをシェアしていた生活もどうかと思い、当時付き合っていたボーイフレンドが住みたがっていたバルセロナへ一緒に行くことにしました。ロンドンとあまりに違う明るい空に惚れこみ、バルセロナに住み始めたのが1999年の終わり頃です。

バルセロナで出会ったカタラン人と結婚をして、長男が誕生しました。最初は夫や同僚からスペイン語を学びながらready-made officeのセンターマネージャーとして働いていましたが、当時の上司がready-made officeのお客さんだったスペイン外務省のシンクタンクCasa Asiaへ私を推薦してくれたため、Casa Asiaに転職しました。2002年から3人目の子供の誕生後まで勤め、子供の学校の活動と両立しながらのハードな10年間でしたが、経済・文化交流事業やインドでのカンファレンスの担当など、幅広く非常にエキサイティングな仕事でした。


[写真]GRA代表 岩佐


岩佐)レナータさんは学問や仕事を通して長い間日本との繋がりはあったということですが、今回移住にまで至った大きな転機は何でしょうか。

レナータ)大きなきっかけは、2011年3月に起きた東北の震災です。当時スペインでも大ニュースになっていました。東京三菱銀行時代の大好きな同僚を久々にフェイスブックで見つけて、心配と同時に日本への情熱が再燃しました。何とかしてもう一度日本語を読みたい、話したい、と思って勉強をし直し、またSOAS時代の先生の伝手を辿り東北へ何度も行きました。

日本からバルセロナに戻っても、私の心はずっと気仙沼にありましたね。どうしても日本に住みたいと思いながら、気仙沼在住の日本人のブログを読む毎日でした。日本に住むためには日本語をもっと勉強しないといけないと思い、仕事後は子供の世話し、夜中に勉強をして、2012年1月に日本語能力試験のN2に受かったのです。

岩佐)レナータさんは僕より日本語が上手かもしれないですね(笑)。確か僕らが初めて会ったのは2012年夏頃の仙台だったと思うんですが、その頃はCasa Asiaの仕事はどうしていたんですか?

レナータ)スペインは当時不景気だったにも拘らず、2012年の7月にCasa Asiaという安定した良い仕事を辞めてしまいました。日本で仕事を見つけたかったんです。3人の子供をシチリアにいる母や姉に預けて、3か月の観光ビザで日本へ行きました。2012年7月から9月、全日空時代の同僚の友達のアパートを貸してもらい、東北を回っていた時に岩佐さんにも会ったんですね。

Financial Timesで読んだETICという団体についての記事に感化され、メンバーである石川さんにメールを出して会いに行くなど、とにかくたくさんの人に会いに行きました。石川さんに会ってソーシャルビジネスというものを知って、大きな衝撃を受けましたね。お金持ちのためではなく、社会のためにビジネスができるんだと。日本のソーシャルビジネスを世界に紹介したいと思い、2012年から「支倉2.0プログラム」というプロジェクトを立ち上げ、Casa Asia勤務時代の行政とのネットワークを使って、IESEというビジネススクールやバルセロナ市、観光局など、不景気の中たくさんの人に協力してもらいました。当時、日本へのパッションだけで説得をしていましたね。スペースを貸してくれたり宣伝をしてくれたり、本当にありがたかったです。

岩佐)レナータさんのおかげで日本、特に東北のことが欧州に広まり、僕もIESEやIEビジネススクールで講演をさせてもらったこともありましたね。支倉2.0のプロジェクトでは、レナータさんは資金をどう工面していたんですか?

レナータ)ほぼ全部ボランティアです。アパートを売ったお金でやっていたので、子供3人を養いながらの生活は大変でしたが、日本を海外に紹介するためにはそれでも良いと思っていたんです。でも回を重ねるごとに徐々に協力してくれる人が増え、日本の起業家を欧州へ連れてくる際の交通費や宿泊代などは賄えるようになりました。

岩佐)レナータさんのパッションと行動力が本当に素晴らしいです。あの時のレナータさんのパワーはすごかった。ここぞという時に命を惜しまず動きまくっていた。それがこれから参画する予定のNext Commons Labや、念願の日本移住にも繋がっていったんですね。それにしてもまさか遠野に移住するとはびっくりですよ!


<後編へ続く>


Renata Piazza(レナータ・ピアッツア)。イタリア、シチリア島生まれ、ヴェネツィア大学日本語学科卒業、早稲田大学政治経済学部客員研究員、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)卒業。全日空、東京三菱銀行(ロンドン)を経て、スペイン外務省直轄外交機関Casa Asia(Asia House)に10年間プロジェクト・コーディネーターとして勤務。以後日本ならびにアジア各国関連の講演会、展示会、セミナーなど経済・文化交流活動に従事。3.11以降、東北地方に何度も渡り長期間滞在し、強固なネットワークを築く。震災のあと東北に生み出したイノベーションを海外に紹介して、東北と欧州ビジネス交流を推進のため2013年「NPO法人支倉プログラム」を設立。

日本でいちばん屋上を愛する男-岡崎富夢の物語<後編>

屋上リビングを一気に庶民に手が届く価格にした男、株式会社PASIO代表 岡崎富夢の物語。豪快な半生を語ってもらいました。

[写真]PASIO代表岡崎富夢(左)とGRA代表岩佐(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」の浴槽にて


<前編はこちら>
<中編はこちら>

2011年1月23日。2つの事業立て直しに成功し、会社での将来が約束されたかに見えた岡崎だが・・・

岡崎)33歳になった俺は再び辞表を会社に出したんだ。社長に決裁をかけなければちょっとした出費もできないっていう、会社の規定が馬鹿馬鹿しくてね。最早数十億円以上の売上をあげる会社で、しかもその中核は俺が築いたものと言っても過言じゃないのに、わずかな額のために毎回決裁をかけるくらいなら、辞めて自分で起業した方が利益は上がるし早いよね。俺はこのライフスタイルを日本に広めるのが使命と思っていた。でもこのままこの会社のお伺いを立てていたら広まらない。俺には俺なりの大義があったんだ。

今でも覚えてるんだけど、オーナーは絵に描いたように椅子から転げ落ちたよ。だって俺は当時会社の常務でスーパースターだったから。でもオーナーからしたら、別に利益を上げたいと思ってないんだよね。まあこのままの調子でやっていけたらいいんだけど、俺はそれじゃ嫌なんだよ。だから俺は言ってやった。「こんな新しい事業初めてでしょ。なのに一々お伺い立てていたら、この事業はだめになります。屋上緑化を広めるのは俺のライフワークだから、このままお伺い立て続けるくらいなら俺は辞めます」と。

で、慌てて慰留するオーナーに、俺はこう答えた。「まず決裁を俺の自由にさせてください。また、年収は俺のあげた営業利益の10%をください。自分で起業したら俺は億万長者になるわけだから」と。

そしたらまさかオーナーは条件を飲むって言うからさ。俺は会社を辞める気満々だったから条件をつけたんだけど、意外にもオーナーはその条件を飲んでまで俺に会社に留まってほしいと。飲むと言われても辞めるなら、俺がただ一人で儲けたいだけじゃないかということになるからさ。俺山口県出身でお人よしだから、オーナーを信じちゃったんだよね。それで俺は会社に残ることにして、年収はそれまで1,000万だったのが、4000万になった。

岩佐)株ももらったの?

岡崎)多少ね。役員はこれから辞めるから、10年後には増やそうという口約束をして貰ったんだ。

岩佐)オーナーに条件を飲んでもらって、会社は富夢ちゃんの立て直した2つの事業のおかげで絶好調だったんだよね。そういえば富夢ちゃん、その頃よくメディアにも出てたよね。時代の寵児な感じだったよ。

岡崎)そう、春そのものだったよ。4000万の年収があり、経費も自由に使うことができる。

岩佐)その時どうだった?どんな気持ちだったの?

岡崎)最悪だったね。もう最悪。今だからわかるんだけど、俺は完全に驕っていて、酒と女と金に溺れていた。酒なんてむちゃくちゃ飲んでたし、女なんて日替わりだったね。その頃はそんなんだったけど、誰も覚えてないし今となっては誰とも関係が残ってないんだよ。金も、小銭入れから折りたたんだ1万円が出てくるくらい、無頓着だった。全部代替欲求のはけ口。悪魔に魂を売ってたんだ。その時は分からなかったけど。


GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


岡崎)俺、昔から金持ちになりたかったんだ。俺の親父は中卒でお袋はヤンキーで、めちゃくちゃ貧乏だったんだよね。お袋は金持ちのお嬢さんだったんだけど継母に毎日いじめられていて、ものすごく愛のない家で育ってきた人なんだ。親父は中卒で自動車の整備士をやっていて、金はないけど、俺のおばあちゃんの愛を受けて育った人なんだよね。その二人が結婚して5年後に生まれた一人息子が俺なんだ。俺は、金はないけど本当に愛のある家庭で育った。だから俺は人を信じているし、人が大好きなんだ。両親に愛されて育った。でも金はなかった。小学校の5年くらいの時、夏休みに海外旅行行ってる奴いるやん。めっちゃ楽しそうやん。ハワイとかさ。そいつより俺は喧嘩も強いし足も速いし勉強もできるの。でもハワイには行けないわけ。なんでかと思ったら、親父のパフォーマンスの違いなわけ。親父のいい笑顔は思い浮かぶけど、ハワイは無理だろうなと。だから、俺が親父たちを連れていけるようになろうと思った。これが一つの原体験。

もう一つが、親父の姉さんの子どもが心臓に穴が開いていて、この子の手術に500万かかると言われていた。親戚中が、金がないから右往左往していた。その時もし俺に金があったら出してやれるのに、と。愛のすばらしさも受け止めてきたけど、金のない惨めさも小学校低学年の時に痛烈に感じたね。

もう一つ決定的だったのが、うちのお袋は親父のことを大好きだったんだ、優しくて。でも親父は中卒だから、いつも会社から帰ってきたら会社の愚痴を言う。自分は現場を知っていて仕事ができるけど、高卒大卒の上司がきて、何も分かっていない彼らに親父は虐げられる。それでお袋に会社の愚痴を言うわけ。小学校4年くらいの時のことを俺は覚えてるんだけど、毎晩晩飯を食いながら、お袋が『お父さん、そんな人はいずれ自業自得でいなくなりますよ。お父さんのおかげで私たちは毎日食べられるんだから、ありがとうね』って親父を立てるわけよ。で朝親父を見送った後ぱっと俺の方を怖い顔で振り返って、『富夢くん。勉強しないとこういう人生になるわよ。人に人生をコントロールされる。私はお父さん大好きだけど、あなたは自分の人生を勝ち取りなさい』と。俺のその小学校時代の原体験が全て今の俺になってるんだ。そこから、自分の力で這い上がるしかないということが身に染みているわけ。そんな俺が30歳に年収1000万、35歳には年収4000万。どこに行くにも付き人が来る。車なんて誰かが運転してくれるから運転したことがない。常務、次期社長とちやほやされる。人間が腐ってくるわけよ。家賃40万のところに住んで、クルーザー持って。1000万くらいの車に乗って。その時俺は魂を売っていたね。

でも、素直にそれを楽しめばいいんだけど、本当は、俺はそんな自分が嫌いなんだよね。自分らしくないんだよ。刹那的で、自己中心的な生活。金があれば何でもできる、みたいなことほんとに言ってたしね。自分の好きじゃない自分になってるから、自分の魂がどんどん崩れていく。崩れるとどうなるかというと、余計に酒、金、女になっていって自分を壊す。俺がどこまでやっても俺についてくるのか、と試したくなる。今思い返すと、最低だったね。


魂を売っていた岡崎富夢


岡崎)それで今でも忘れない、2014年10月31日。前の日に高知の親友の会社との共同事業が決まって意気揚々と羽田で携帯の電源を入れたら、夥しい数の俺の背任行為を指摘するメールが、あのオーナーから届いていたんだ。

岩佐)背任行為って具体的にはなんだったの?

岡崎)女性関係が派手だとか、金遣いの荒さで公私混同しているとか。実際は自腹での支払いがほとんどで、経費を使ったわけでもないし、独身だったから法に触れるようなことは決してしていないんだよ。でも、調子に乗っていた俺は知らずに多くの敵を作っていたんだろうね。完全に青天の霹靂だった。その段階でも、俺は会社経営に対しては全力で取り組んでいたつもりだったよ。毎月全事業部の責任者と会議を行い、既存事業の改善、新規事業の発展のために力を尽くしていた。結局、頭の中はいつも会社のことを考えていた。もう少しで、会社全体をもっと良くできるはずだったんだ。でも、問題はそこじゃなかった。すべての原因は、俺が驕っていたことだったんだ。

本当に、死ぬほどへこんだよ。俺の生まれて来た37年間の意味は何だったのか。このまま落ちぶれてしまうんじゃないか。この俺が、人を信じることができなくなりかけていた。
でも、ある日考えたんだ。これからも俺の人生は続く。この1度きりの人生で何がしたいのか。俺はやっぱり屋上を広めたいと。当然いろんな反対を受けた。でも、俺の意志は強かったね。だって、屋上が大好きだったんだ。そこでようやく立ち直ってマンションと車を引き払って、家財も売り払って、本当に1から身一つで起業したんだ。

岩佐)そんな壮絶な過去があったんだね。で、今は独立して上手く行っていると。

岡崎)前の会社でコアサプライヤーだった会社の社長が、俺が会社を辞めた時すぐ俺のところに来てくれて、「富夢が起業するなら俺についてくる」と言ってくれたんだ。「この売上は君が作ったんだ。君が屋上業界からいなくなることは俺らにとっても大きな損失だ。君が起業するなら俺はついていく」と言ってくれたことも、俺の起業の後押しとなったんだ。今は家具も床材もフレームも、全部その一社が作っている。大量に海外で作らせて大量に在庫を仕入れて、俺らには一個単位で売ってくれる。在庫もしてくれる。それも3年で数十億売ったという化け物のような実績があったからやってくれるんだ。

岩佐)富夢ちゃんは獰猛なライオンだね。獰猛で、自由なライオン。

岡崎)そう、俺は飼いたくないし飼われたくない。自由にしがらみなく、やりたいことを全力でやりたい。俺は今決裁とかを捨ててるの。自分の自由を奪われたくないから、誰の自由も奪いたくない。誰にも雇われたくないし誰も雇いたくないのが本音。お互いに得意な分野も苦手な分野もあるけど、それを否定もしないしお互い認め合っている。全員が個として立ってうまくいく社会って絶対にあるのよ。

人間の生活をベンリにするのが『文明』だとしたら、人間の生活を豊かにするのが『文化』だという。屋上はまさしく後者だ。俺は屋上で人間を豊かにしたい。俺は日本で一番屋上が好きな男なんだ。

(おわり)


GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


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岡崎富夢
1977年1月23日、山口県出身。株式会社PASIO代表取締役。日本に「ラグジュアリーテラス」を広め生活を豊かにしたいとの思いから、株式会社PASIOを創業し「COLORS」という屋上テラスの開発・販売・施工を行う。

日本でいちばん屋上を愛する男-岡崎富夢の物語<中編>

屋上リビングを一気に庶民に手が届く価格にした男、株式会社PASIO代表 岡崎富夢の物語。豪快な半生を語ってもらいました。

[写真]GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


<前編はこちら>

岩佐)独立する前にいた会社では、どんな仕事をしていたの?

岡崎)住宅の断熱材やビルの屋上緑化をする建築会社に勤めていたんだ。当時は会社全体としては数十億の売上で数%の利益だったんだけど、3つ事業があるうちの2つは赤字だった。それを俺は、23歳の時にプロの経営者を志して、数年後MBAの大学院に通いながら会社では営業所の所長になって、東京の営業所を5倍くらいの業績にしたんだ。

その会社では、建物の断熱材事業と、ビルの屋上緑化事業が赤字でさ。屋上緑化事業は、今俺がラグジュアリーテラスとしてやっているような家具つきのテラスではなくて、屋上緑化用資材を売る事業ね。ピーク時にはかなりの利益を出していたんだけど、俺が入ったころには赤字になってた。俺は27歳の時、数十人の部下を率いて事業部長に就任して、立て直しを命じられた。MBA2年目の頃だね。

岩佐)ビジネススクールに行ってもそれを会社で活かせなくて悩んでいる人がすごく多いけど、富夢ちゃんはダイレクトに効いたんだね、学びが。

岡崎)当時の俺はMBAで経営戦略とか論理思考とかを学んでいるくらいだったけど、俺アホだから、「いける」と思ったんだよね。これだけフレームワーク覚えたから立て直せると。で、飛び込んだんだよ。そしたらさ、その事業はもうグダグダ。赤字になるときってその時だけでなくて数年前から腐敗が進んでいる。腐敗が進んで、どうしようもなくなって赤字になるわけ。当時の「4悪」というのを今も覚えてるんだけど、まず、社員のモチベーションが下がっている。みんな辞めたいとか部署異動したいとか言ってるんだよね。それから、競合相手が同じものを自社の原価よりも安い単価で販売していること。競争戦略がなんもなってないわけ。3つ目が、現状を打開する手段を全く打てていないこと。起死回生となるような製品が仕込まれているわけでもない。そして4つ目は営業強化の策しか打ってなかったってことなんだけど、要はその時の上の人たちが、景気が上り調子の時の営業マンたちだから、たくさん営業に回った、それでたくさん利益が上がった、という人たちなんだ。その人たちからすると、『今利益が上がらないのは、営業が足りないから』なんだよね。

岩佐)ただの根性論なわけだ。

岡崎)当時会社で打っていた手が、なんと生命保険の販売で日本一の売り手だったという女性がコンサルに入って、「営業先で手紙を置いてきなさい」という、営業面の局地的な対策だけだったんだよね。そんな部署に事業部長として入っていって事業課題を分析したときに、その4悪を一網打尽にする手があることに気付いたんだ。それは製品開発力の強化という非常にシンプルな手段だったんだよ。

明らかに自社の製品が競合先の製品に負けてるんだ。カタログの性能は全く一緒なんだけど、価格は競合の方が3割も安い。でもその事業を率いてきた人たちに聞くと、競合のカタログ表記は嘘だという。でも、嘘と言っても根拠はないわけ。お客さんはそれを良いと思って買っているわけだよね。だから、嘘の根拠を出せと俺が言ったら、『それは3年使ってみたら初めてわかるんだ』と伝説みたいになっていて。根本の原因は、チャネルはある、ブランドはある、でも製品が弱いということ。製品がなぜ弱いかというと、競合の製品よりも強い製品を作るリソースがないんだよね。だってうちの会社に製品開発部隊がなかったんだから。なぜかというと、以前は天才的な社員が、営業マンをしながら自分で製品を作っていたわけ。だから、『お前らも営業をしながら製品を作れ』というのが会社の方針で、営業強化という指示以外の対策がない。

岩佐)完全に旧日本軍状態だね。玉が入っていない銃剣で突撃させられてたんだ。

岡崎)今でも社長室で繰り広げたバトルを忘れないね。製品開発部隊を作り人と資金を送り込んでほしい、そうすれば俺が全て立て直す、と常務に提言したんだ。製品開発部隊を作らないのなら再建の事業部長を下りると主張し、常務と平行線を辿る一方の俺を見兼ねて、オーナーが「わかった、ここで頓挫するくらいなら、岡崎に任せてみよう」と許可を出した。そこから俺は矢継ぎ早に5つの製品を考案し、今でも残っているメガヒット商品となったよ。そのおかげで売り上げが回復して事業を持ち直すことができたんだ。


[写真]PASIO代表 岡崎富夢


岩佐)とんとん拍子だね。大変じゃなかった?

岡崎)いや、相当苦しかったよ。製品開発ってさ、俺らの業界では製品を出すまでにだいたい1年半かかるわけ。つまり1年半かけて製品を出し、市場に浸透して売り上げが上がるまでに最低2年はかかる。その成果が上がるまでの俺への批判や悪口は本当にすごかった。まあそれもそうだね。たった27歳の俺が事業部長として、数十人の部下の上に立つ。そこに長くいた人間からすると、お前にこの業界の何が分かるんだ、となるよね。俺は役員会とかで必死にプレゼンしてるんだよ、ここがこういう問題でこうすべきだと。経験豊富な人に俺のプランに従ってもらうためには、結局ファクトとロジックしかないんだ。でも俺はこんなに必死なのに、他のやつらは毎晩俺の悪口をつまみに酒を飲んでる、という話が自然と入ってくる。この一年で俺は相当老け込んだね。

MBAに行ったから今の俺がある。ファクトとロジックを信じてるから、どんな批判にも負けなかった。本当にMBAには感謝してる。でも辛かったよ。俺はこんなに会社のことを思ってやってるのに、この船が沈んだらあいつらの生活もなくなるのに、何で夜な夜な居酒屋で俺の悪口言ってるのか、と。一番辛かった時やね。でも俺は起業する勇気もなかった。

でもあの3年で得られたものは大きかった。あの時も、今回の起業にしてもそうなんだけど、結果は数字。売上が上がるまでの間にすごい反響はある、だけどなかなか物が売れないという時期は必ずあるけど、その間に耐えるということを俺はあの3年で学んだよ。お客さんの反応が良くて俺も買いたいと思う商品は、粛々とちゃんと広めていけば、売上が上がるまでに時間はかかってもじっと耐えればよい。その度胸は3年間ぼこぼこに叩かれたときに身についたね。

そして、お前なんかが事業部長だなんて認めないと言われながらも、結果が出ると全て変わるんだ。数字が出たら、大スター。みんな『俺を信じてた』、とか言うわけ。そう思っていても、思っていなくても、みんな言う。それがサラリーマンの世界だよ。

でその数か月後、もう1つの部署の事業立て直しの話が舞い込んできたんだ。

岩佐)富夢ちゃんはそれを引き受けたの?あれほど大変な経験をしたうえで絶大な成果を残したんだから、もう引き受けないという選択もできたよね。

岡崎)引き受けたよ、もちろん。だって俺が目指してるのは、出世して勝ち抜けすることではなくて、プロの経営者として常に最悪のところに乗り込んでいって結果を出す人生だから。迷うことなく行ったね。だから俺がいつも思うのは、目指しているものは何なのか。目先の出世なのか、何なのか。俺は目指しているものはプロの経営者だ。どんな厳しい状況でも単身乗り込んでいって、ファクトとロジックと、敵だった人間を全部味方につけて、再建していくというのが俺の目指している道だ。だからそっちの道に行った時、一番俺の悪口を言っていた人たちが驚きながらも俺についてくると言ってくれて、一丸となってその事業も再建した。その過程で見つけたのが今のビジネスの原型なんだよ。


赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて 夜風に吹かれて食事も酒も進む


岡崎)次の再建の事業は、ビルの断熱事業だった。当時はビルとマンションの断熱が主だったんだけど、木造の戸建てにも断熱の技術を応用できるようになって、木造の戸建ての断熱事業に進出したところだったんだ。その際とある営業マンが「おたくはビルの屋上庭園をやってるよね。これ同じようなことを、一戸建ての家にも応用できないか」という顧客の声を拾ってきてさ。

この時の会議は、今でも伝説の会議として語り継がれてるよ。その時俺は屋上緑化の事業部長も兼務してたから、そのビジネス化を思いついたんだ。当時大手の住宅会社が、500万円で屋上に芝生と樹木を植えて屋上庭園を造っているということを俺は知っていたから、その営業マンが「部長、こういうニーズがあるんですけどどうしましょうか」と聞いてきた時、「500万くらいかかるけどそれでもやるなら引き受けると返せ」って言ったんだよね。後日どうなったか聞いたら、「住宅ローンがあって屋根と比べたら非常に高価になるのでできないと言われた」と言う。その時、俺がもしめちゃめちゃ儲かってたらその声は無視だと思うの。でもリーマンショックの影響で会社の状況も良くなかったから、何か成長の種を見つけなきゃいけないと思っていたところだった。本当にグッドクエスチョンだったと思うんだけど、その営業マンに「屋根っていくらすんの?」と聞いたら、「100万です」と言うわけ。それなら、100万だったら屋根が屋上に切り替わるんだなということに気付いた。今は業界では500万で売られている屋上は、100万だったら買うというお客様がいる。

その時俺は黙り込んだよ。3分間も黙った。

岩佐)この饒舌な男が、3分も黙ったと。(笑)

岡崎)俺は無心にノートに試算しだしてさ、あの材料とあの材料を使って、いくらになる、と。

お客さんが屋根と同じ値段だったら買うと聞き出せた。100万だったら買うという。これはいけると踏んで、やるとその場で決めたんだ。あらゆる事業部から金引っ張ってきて、これを100万で売るぞと。期限は2か月だ。GO!!と。

2か月後、何とか原価を合わせることができた。それで発売をかけたところ、1年目、2年目、3年目と売り上げが倍増し、飛ぶように売れた。年に約数千棟売れるようになった。

岩佐)屋上が100万って、激安だね!俺も昔戸建を建てようとしたときに見積もり取ったけど、随分小さい屋上でも200万くらいかかるって言われたよ・・・。どうやってそこまで原価を下げたの?

岡崎)家具などのサプライヤーを絞り込んだんだ。今までは例えばタイルだったら、4社で各3種類ずつ、計12種類から選ぶというオーダーメイドの世界だった。でも俺は絞り込んだんだ。100万で売るにはタイルはこれくらいじゃなきゃいけないと決めて、主要サプライヤーの社長のところに行って、「これから俺は屋根を屋上にします、将来これぐらいあなたの製品を売ります。今はまだ売上ゼロだけど、将来これぐらい売った時の単価を今出してください」と、直接プレゼンをしてもらった。そしたらある会社の社長が、「岡崎さんの夢に乗った」と、どんと値下げしてくれたんだ。それを俺は繰り返した。

当時の屋上緑化のすべてのアイテムに対して、全社にプレゼンしてもらったよ。床材、家具、防水、白い砂利、芝の植物のメーカー、土のメーカー・・。

そうして屋上緑化事業の立て直しに成功して、数年後には会社の常務にまで登り詰めたんだけど、まだ俺はこの時には、とんでもない将来が待ち受けているとは予想もしていなかったんだ。まさか、地獄の底まで落っこちることになるとは夢にも思わなかった・・・

<後編に続く>


赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて BBQを行う


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岡崎富夢
1977年1月23日、山口県出身。株式会社PASIO代表取締役。日本に「ラグジュアリーテラス」を広め生活を豊かにしたいとの思いから、株式会社PASIOを創業し「COLORS」という屋上テラスの開発・販売・施工を行う。

日本でいちばん屋上を愛する男-岡崎富夢の物語<前編>

屋上リビングを一気に庶民に手が届く価格にした男、岡崎富夢の物語。豪快な半生を語ってもらいました。

20160520_head.png[写真]赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」


赤坂の何の変哲もないビルの階段を上がっていくと、屋上にはバリと見紛うような光景が広がっていた。アジアンテイストのソファーにテーブル、簾、そして一番奥にはゆったりと浴槽が構えている。「ラグジュアリーテラス」というその空間には、肉を焼く匂いが水の滴る音とともにゆっくりと漂い、ついここが東京だということを忘れそうになる。

人生を謳歌する男。それを象徴するかのように豪快に笑う。ラグジュアリーテラスを世の中に生み出した経営者、岡崎富夢とは一体どのような男なのだろうか。


岩佐)富夢ちゃんは今どういうビジネスをやっているの?

岡崎)株式会社PASIOという会社でCOLORSというラグジュアリーテラスを作ってるんだ。
普通の木造戸建て住宅の屋根の代わりに屋上を作って、俺が選んだデザイン・機能に優れたダイニングセットやホームバー、ジェットバスなどの屋上に必須のアイテムをすべてパッケージで設置するのがCOLORS。高級ホテルのリゾートテラスにいるような気分を日常的に味わえる。それを住宅ローンに組み込んだら、月々1万円以下で若い家族が手にできるんだ。
直接的にライフスタイルを変えられる、最も費用対効果の高い住宅オプションだと思うよ。

俺のビジネスのすごいところはさ、お金をかけたらどれだけでもいい屋上は作れるけど、それを本当に一般の若い家庭でも手の届く価格に設定したことなんだ。
COLORSがあったら生活が変わるよ。単純に屋根の代わりに1フロア分の居住空間が増えるということもあるけど、空の下って心が開放されるんだよね。親子・夫婦・友人とのコミュニケーションが増えて1日が楽しくなる。心にも、空間的にも余裕が出てくる。そんな日々が続けば人生が豊かになる。俺は、そういう豊かなライフスタイルを屋上を通して日本に広めたいんだ。そのために、価格帯をまず一番に設定した。

屋上リビング、ラグジュアリーテラスは、昔は屋上庭園とか言っていたんだけど、実際は管理が大変で高いんだよね。使ってないところも多いし。ラグジュアリーテラスはそんな面倒なことなしに、最初から手軽に恰好つけられる。だって『うちで飲もう』と誘ってこのテラスが出てきたらそれだけでやばくない?俺も毎週のようにクライアントの社長を呼んで講義をした後ここで飲んだり、友人を呼んでバーベキューしたりして、最高だよ。

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[写真]GRA代表岩佐(左)とPASIO代表岡崎富夢(右) 赤坂のラグジュアリーテラス「COLORS」にて


岩佐)富夢ちゃんはビジョナリーだし、夢もでかいし、豪快だし、昔からそんな感じだったの?

岡崎)俺は基本的には子どもの頃から全然変わってないね。同級生に会うと、『富夢は絶対社長になると思ってたよ』とみんなに言われる。23歳の時に起業家になろうと思ったんだけど、俺の周りに起業家はいなかったし、親父もサラリーマンだったから、イメージがつかなかったんだ。だからとりあえず大学へ行って、とりあえず前の会社に勤めたわけ。営業マンだったんだけど、めっちゃ売ったね。その時の目標は早く一人前になることで、同期で一位になって最優秀新人賞をとろうと思った。6月くらいには一人前になっていたね。最初の2か月くらいで一位になった。

そうして1年間、1分1秒さえ惜しんで努力して、1年目に最優秀新人賞をとることができたんだ。目標は達成したんだけど、それで迎えた2年目にはなんと、また全く同じ1年が待っているわけよ。これはあかんな、と思った。最優秀新人賞は1年目しかないわけで、それを達成したら2年目はもうモチベーションがないよね。なのに去年と同じことしているなあと。先輩を見たら、5年目の先輩も同じことしてるなあと。そこに夢はなかったね。これが雇われのプレーヤーであるということなんだと思った。それで、2年目のGW明け、マンネリ化に嫌気が差して辞表を出したんだ。

岩佐)23歳の時ね。でもその時に結局会社を辞めなかったのはなんで?

岡崎)その時俺を一番可愛がってくれていた上司の言葉で踏みとどまったんだ。「分かった。辞めたい理由は分かった。それで、辞めて何がしたいんだ?」と。これが結構俺の中では重要な転機で、辞めて何がしたいのかと言われたときに、何もなかったんだよね。その時にその上司から、「現状が不満で辞めても、次の会社も絶対また辞める。現状が楽しくないからと他にパラダイスのような会社を探しても、絶対また辞めるよ。何がしたいかがあって、それがこの会社ではだめでどこかの会社ではできるというのであれば、辞めてもいいと思う」と言われたんだ。

その上司からの言葉がきっかけで、俺は初めて自分の原動力やキャリアパスについて考えてみたんだよね。

俺もともと中学高校と、弱いテニス部のキャプテンをやってたんだけど、その時に最強の学校にしたんだよ。みんなで勝とうよと。鬼キャプテンと言われながらも、最後には下関で有数の強豪校になった時に、『富夢がキャプテンでよかった』と言われたんだよね。そうやってリーダーとして仲間と勝利する喜びを味わうという、原体験があったんだ。俺らジャンプ世代やん。ジャンプの3つのキーワードって知ってる?『友情、努力、勝利』。全部の漫画がそれなの。ドラゴンボールも聖闘士星矢も、全部仲間と努力して勝つというストーリーなの。週に一回全部読んでいたから洗脳されてたね。しかも当時ちょうど日産のカルロスゴーンが日産を復活させる時代だったんだけど、それに触発されて、よっしゃ、じゃあ俺もいずれそういうプロの経営者になろう、と思ったんだ。好き嫌いに拘らずどんな事業でも、どんなに赤字でも、俺が一人で乗り込んでいって立て直してやろう、という。

俺は「創造と変革」の「変革」側の人間だと思う。そうして辞めずに続けた会社で、文字通り大きな変革を起こすことになるんだ。

<中編へ続く>

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岡崎富夢
1977年1月23日、山口県出身。株式会社PASIO代表取締役。日本に「ラグジュアリーテラス」を広め生活を豊かにしたいとの思いから、株式会社PASIOを創業し「COLORS」という屋上テラスの開発・販売・施工を行う。

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プロフィール

岩佐大輝

Author:岩佐大輝

1977年、宮城県山元町生まれ。株式会社GRA代表取締役CEO。日本、インドで6つの法人のトップを務める起業家。 詳細はこちら≫

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